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Tuesday, November 8, 2011

Kisaeng school キーセン学校

http://www010.upp.so-net.ne.jp/japancia/kiji/kimugakukousatu.html

金学順(キム・ハクスン、김학순、1924年 - 1997年12月16日)は韓国人の元慰安婦
Kim Hak-sun

Consideration of Kisaeng school that former comfort woman,Kim Hak-sun was sold by her mother
金学順が母親に売られたキーセン(妓生)学校の考察


キーセン(妓生)は日本の「舞妓」に近いなど歴史を美化・歪曲した主張を行いますが、果たして本当にそうでしょうか?歴史事実を美化・歪曲している左巻きの方々の方じゃないですか??
以下はある左巻き慰安婦擁護サイトに書かれたエントリーの写しです。

http://ameblo.jp/scopedog/day-20070613.html

~引用開始~

どうにもね。「キーセン学校」についてよく知らずに語ってますね。
「キーセン」だが「妓生」のこと。で、「妓生」を売春婦だと直結させるバカが多いのだが、「妓生」は
どちらかと言えば日本の「舞妓」に近い。(参考:http://www.tanken.com/kisan.html )

京都の東山女子学園は「舞妓」の学校でもあるが、彼女らを売春婦と呼ぶのは普通ははばかられるだろう。

無論、「舞妓」にしろ「妓生」にしろ売春と無縁ではないが、本業は芸能である。「妓生学校」もそういう芸能を学ぶ場所である。「妓生」自体は、日本統治下でどんどん売春婦としての色が濃くなっていくが、それゆえに「妓生学校」にいた金学順さんが目をつけられたとも考えられる。


http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/
Pr.Takeshi Fujinaga, Osaka Sangyo university


専攻分野
朝鮮近現代史
東アジア交流史
研究テーマ
植民地公娼制度・日本軍「慰安婦」制度について
戦前の日本帝国の支配地域における公娼制度と、朝鮮人接客女性の生活実態を分析することで、 「帝国」日本の性支配システムを明らかにし、またこれが日本軍「慰安婦」制度に継承される過程を考察する。
植民地期・解放直後の済州島の社会運動について
日本統治下の植民地朝鮮において、とくに大阪と関係の深かった済州島の民族解放運動の展開過程を、 解放後の4・3事件(1948年)や在阪朝鮮人の生活状況などとの関係性を念頭におきつつ検討する。
韓国の「過去清算」について
現在、韓国で進められている「過去清算」の事業の歴史的意義を、朝鮮現代史の流れをふまえながら、世界史的な観点から検討する。

※大阪産業大学教授 藤永壮氏の「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程」 より引用

「朝鮮王朝時代の妓生は、基本的に中央や地方の官庁に所属する「官妓」であり、いわゆる「八賤」のひとつ―賤民の身分に置かれていた。その主な役割は、宮中・官庁で行事や宴会があるときに歌舞を演じ、出席者の接待にあたることである。ソウルで宮中行事などに参席する官妓は、中央官庁に所属する「京妓」と、地方官庁から送られてきた「郷妓」(または「選上妓」)―とくに平壌は名妓の産地として有名である―から構成されていた。また官妓は官吏の求めに応じて自宅で宴を催し、酒食を提供したり歌舞を披露することもあった。
しかし妓生に対する国家の給与は充分ではなかったため、朝鮮王朝時代の後期になって、下級官吏が「妓夫」(または「妓生書房」「仮夫」)と呼ばれる後援者となり、この妓夫の仲介によって、特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取り、場合によっては妾として扱われるようになった。妓夫をもたない妓生は、彼女を養育し技芸を教えた収養父・収養母が同様の役割を果たしたという。一般に京妓は妓夫をもつケースが多く、郷妓はもたない者が多かったので、前者を「有夫妓」、後者を「無夫妓」と呼ぶ場合もあった。」

妓生は、売春婦というよりは富裕層の愛人・妾といった形態であったと言える。妾自体は戦前の日本でも珍しくなく、本妻などからの差別はあったにしても一般的に売春婦と同等に見られることはなかっただろう。

~引用終わり~

http://drama.keepthewish.net/?p=1770

대전별감이 기방을 운영하는 기부(妓夫)라는 것은 이미 말한 바 있다.
기방의 운영자를 기부(妓夫), 곧 기둥서방이라고 한다.
Gyu-fu,Gifu,







とまあ、朝鮮王朝後期には官妓としては国家の給与が十分で無く、下級官吏が仲介となって特定の男性と性的関係を結ばせて金銭を受け取らせていたと書いてあるわけです。
これは“「舞妓」に近い物”などではなく、只の中期契約の売春婦です。
特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取る→中期契約の売春です。

“妾になるのは場合によって”とわざわざ但し書きがあるじゃないですかwwwwつまり“妾”はメインじゃない。
日本の「舞妓」は上記の様に特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取ったりしませんし、妾でもありません。茶屋で修行し、主に座敷での芸能によって収入を得ている存在です。
ちゃんとした茶屋組合よりの許しが出て初めて座敷で芸能を披露できる芸能です。

日本で特定の男性と性的関係を結んで金銭を受け取る女が居たのは“遊郭”です。
“「妓生」は日本の「舞妓」に近い”などと言うのは下らない歴史美化・歪曲以外の何物でもありません。

妓生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
妓生(きしょう、キーセン)現代では朝鮮半島の娼婦を指す言葉で、狭義では李氏朝鮮統治下、明・清の皇帝からの使者や高官の歓待や宮中内の宴会などで楽技を披露するために準備された女性の賤民の事を差す。しかし実際の妓生の位置付けは芸妓を兼業とする娼婦である。

李氏朝鮮時代の妓生
李氏朝鮮時代の妓生は、官に属する官妓(ソウルに使える京妓と地方の郷妓に別れる)と私有物である妓生が存在したが、大半は官妓だった様である。妓生になる女性は、大半は奴婢であるが、身を持ち崩した両班の娘などがなる場合も多い。
李氏朝鮮の妓生は高麗女楽をルーツにしており、宮中での宴会に用いる為の官妓を置いた。またそれを管理するための役所妓生庁が存在した。一般的に妓生は、両班を相手とするため、歌舞・学問・詩歌・鍼灸などに通じている必要があった。また、華やかな衣服を着ることが許諾され、朝鮮時代の流行を先導する役目もした。

妓生の全盛(絶頂)期は暴君として名高い燕山君の時代とされており、名寺刹円覚寺を潰し、妓生院を建て、全国から女子を集め大量の妓生を育成した。これは燕山君の淫蕩な性格に起因していると言われており、妓生の風紀も乱れた。

李氏朝鮮時代の妓生は、3つのランクに別れており、最上のものを一牌(イルペ)、次のものを二牌(イペ)、もっとも下級な者を三牌(サムペ)と呼ぶ。単なる売春行為を行う女性は寺党(サダン)・色酒家(セクチュガ)・鼻頭(コモリ)・トルビョン・花郎女(ファランニョ)などと呼び妓生とは言わない。

一牌(イルペ)が真の意味での妓生であり、気位が高く「妓生宰相」とも呼ばれ、また「売唄不売淫」と言う様に貞節を重んじ、身体を売る事は無いことを建て前としていたが、実際には国家が支給する給料に比べ、支出が多いために家畜制度(畜は養うと言う意味)が認められていた。
これは特定の両班に囲い込まれる事で資金的援助を得る事実上の売春制度である。だが、このように囲い込まれた妓生との間に産まれた子供は、例外的に奴婢では無く良民の子として遇する制度があった(高麗・李氏朝鮮では片方の親が奴婢・賤民の場合その子を奴婢とする制度があった。)。

二牌(イペ)は、隠君子とも呼ばれ、準妓生とされる。妓生から転落したものが多く、住宅街の中で暮らし、隠れて売春するものが多かった。

三牌(サムペ)は完全に娼婦であり、「タバンモリ」とも言う。雑歌を唄って接客したとされる。
李氏朝鮮末期に至るとこれらの区別はつかなくなり、三牌までを妓生と呼ぶようになっていた。

また、李氏朝鮮には医女制度があったが、成宗の冶世の末期より、徐々に医女と妓生の区別もつかなくなり、
李氏朝鮮後期には、妓生(一牌)が宮中内外での医療行為も行っていた様である。

また、ソウルには、妓生房と呼ばれるものがあり、主として官庁の管理の元に営業をしていたが、遊郭に似ており、
かなり厳格なしきたりを持って運営されていた。しかしながら、地方に於いては三牌が多く、このようなものは存在しなかったとされる。

李氏朝鮮末期に開国に至ると日本や海外からの文化流入により妓生制度にも変化が見られる様になる。
日本の芸者や遊郭制度、ロシアなどから入ってきた白人の外娼(甘人=カミンと呼ぶ)などが入り込み、従来の妓生制度と融合し、区別が無くなっていった。李氏朝鮮末期には妓生組合が作られているが、これによって従来、雇い主を必要とした妓生も主人を持たない妓生業が行える様になり、地方の妓生がソウルに入り込み、これにより妓生の形態が激変した。そして日本領時代に確立した公娼制度に組み込まれた。

~以上、Wikipediaより転載終了~

李氏朝鮮時代の妓生は一牌(イルペ)、二牌(イペ)、三牌(サムペ)に分かれており、一牌(イルペ)でさえ、特定の両班に囲い込まれる事で資金的援助を得る事実上の売春制度であったとされている。従来の妓生制度と融合し、区別が無くなっていった。
李氏朝鮮末期には妓生組合が作られているが、これによって従来、雇い主を必要とした妓生も主人を持たない妓生業が行える様になり、地方の妓生がソウルに入り込み、これにより妓生の形態が激変した。そして日本領時代に確立した公娼制度に組み込まれた。
→ごらんの通り、一牌(イルペ)から三牌(サムペ)まで実態は売春婦です。日本統治時代に既にキーセンは“芸能”では無く、実質的に売春業であった訳です。

さて、ここからが本題ですが、キーセン学校という所がどういう所で有ったのか?1904年当時の貴重な書物にその実態が描かれています。

1904年発刊の本、「世界の婦人」 より転載

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40015544&VOL_NUM=00000&KOMA=31&ITYPE=0

(60)朝鮮婦人とキーセン学校

滅亡寸前の朝鮮国にも日本の小学校を真似た公立学校が有るが、あまり盛んでは無く、最も大きいとされる校舎でも30名しかおらず、しかも日々実際に登校するのは僅か10数名ばかりであり、半島教育の有様は哀れ極まりない。
これと較べて隆々と盛んなのはキーセン学校であり、各学校は100名以上の生徒が居る。

小学校は無料なのに、キーセン学校は多額の月謝で暴利を貪っているが、このように多数の生徒を有するのは他にはない。朝鮮では一般平民と役人との身分の差が甚だしく隔たれており、上によじ登る為にはキーセン学校を卒業して官妓になり、大官高位の人間に接近して色仕掛けで心を引き付けてなんとか取り入ろう
とする為であると言う。半ば崩壊した駄目な国に於ける出世の近道とはこのように賎しいものである。」


とある。つまり、キーセン学校とは月謝を払って通う学校であり、 キーセン学校を卒業して官妓になり、大官高位の人間に接近して色仕掛けで心を引き付けてなんとか取り入り上によじ登る為の学校であったのである。
一牌(イルペ)のキーセンでさえ実質的には売春婦で有ったのに、母親によってキーセン学校に売られた金学順がどうして売春婦の立場で無い訳があろうか?
しかもこの義父=キーセン学校の経営者は半島で営業が出来ないので、わざわざ中国まで金学順を金儲けの為に連れて行っている。
中国まで金学順を金儲けの為に連れて行っている。この時点で官妓ではなく只の売春婦として金学順を中国まで連れて行った事以外にどう説明出来るのか?

要するに、
・李氏朝鮮末期の妓生は一牌(イルペ)から三牌(サムペ)まで実質的に売春婦である
・キーセン学校とは月謝を払って通う学校であり、キーセン学校へ売られたというのは100%売春婦としてである。
・金学順の義父=キーセン学校の経営者は、朝鮮官妓の無い中国まで連れて行ったのは売春婦として営業させる為である。

金学順は自分を売った義父=キーセン学校の経営者と自分の母親を恨むべきである。
今の日本政府に謝罪と賠償を求めるのは全くのデタラメだと言う事だ!

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