java

Wednesday, March 28, 2012

"the untouchable underclass people" in korean peninsula by Shinichi Nomura in Keio University

http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/kwangde/kwangde.html

"the untouchable underclass people" in korean peninsula;codicil
by Shinichi Nomura in Keio University

「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)
野村伸一

* 付記 本論は 「「賤民」の文化史序説」『いくつもの日本5』、岩波書店、2003年、161-190頁の原稿に補訂を加えたものです(2008.10.19)。

一 「賤民」の文化史  

賤民ということばは今日の日本において公の場所では用いないことになっているらしく、新聞や放送で見聞きすることはまずない。そして、そのことに対して特に異議を唱える公論もないのをみると、日本文化は大方においてもはやそうしたことを論じる必要もない段階にあるということなのであろう。日本社会にいわれのない「蔑み」に苦しむ人びとがなければそれでもよいわけである。しかし、現実はそうではなかろう。「不適切なことば」を排除し、うわ繕いは念入りだが、次つぎと疼きや痛みに由来する不協和音が聞こえてくる。その声、音が社会のどのような片隅から出てくるのかは予想もつかないが、それが声にならないやるせなさから発されたものであることには違いがない。
ここで朝鮮の民衆文化史を振り返ってみよう。それは実は「賤民」とされた人びとの声なき歴史と不可分なのである。朝鮮王朝後半には通念として「七般公賤」ということがいわれた。すなわち、それは妓生、内人(宮女)、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、官奴婢、有罪の逃亡者である。また「八般私賤」ということもいわれた。すなわちそれは、僧侶、伶人(楽工)、才人(河原者)、巫女、捨堂(社堂)、挙史(居士)、鞋匠、白丁である(今西竜「朝鮮白丁考」参照)。さらに盲人の占い師、漁夫、海女、山尺(山で薬草などを採る者)、各種の匠人、私奴婢なども賤民視された。
この人たちをめぐる少なくとも五百年の文化の歴史は、朝鮮の社会生活史そのものである。もちろん今日、賤民などということばは仮初めにも対人関係において使ってはならず、その意味では見慣れぬことばであってよい。しかし、それは歴史の上で、かれらの正確な位置付けがなされていればのことである。賤民とされた人びとは歴史のはじめからそうであったわけではない。その大半は朝鮮朝のはじめには良民の類いであり、単に儒教の礼儀に則った暮らしをしなかっただけなのである。高麗時代、白丁は良民を指すことばであった。また朝鮮朝の初期の賤民は公私の奴婢だけであった(劉承源『朝鮮初期身分制研究』)。
それでは、この人びとはいかにして「賤民」とされていったのか。これは朝鮮王朝の一貫した王化、あるいは教化の政策が王朝後半になって副次的に産み出したものということができよう。要するに、奴婢に逆賊または囚われの敵対者といった規定があるのと同じく、理由はさておき化外の民とならざるをえなかった者たち、あるいは王化のソトにみずから出ていった者たちが徐々に賤民とされたのである。王化のソトにも相応の共同体はあったが、かれらは王朝社会のなかでは何とも抗弁のしようのない不条理な現実を過ごした。ただし、かれらの内なる世界はどうだったのかとなると、そう簡単ではない。
たとえば、賤民のなかでも一段と蔑まれた白丁たちは、王朝の後半においては、獣肉の屠畜を半ば独占的に扱い、経済的には蓄えのある者も多かった。かれらは農民たちとは別の「特殊部落」を形成させられたため、その伝承する生活形態は放っておかれた。そうした白丁村の内部で殺牛の前後におこなわれた儀礼は白丁と牛とのあいだに調和の取れた世界があったことを示唆する。まず屠場は清浄にされ、僧の念仏があり、牛に対しては手斧で急所を二度打ってすみやかに死なせてやる。そして神聖とされる左手に神の杖(刃物)を持ち、牛の霊魂の済度を果たすためには鋭利な刃を準備する。こうしたことの一端はたとえば、白丁への鎮魂ともいうべき鄭棟柱の作品『神の杖』にえがかれている。
しかし、その白丁についても近現代からの遡及が大半であり、近世の実態はよくわからない。同じことは他の賤民についてもいえる。さて、それでは問題をどのように設定したらよいのか。わたしは、賤民の大半は朝鮮王朝のはじめにはいなかったと考える。そこで、分岐点となった朝鮮王朝初期の、いわばまつろわぬ民を取り上げてみたい。かれらの歴史は、今日、韓国において比較的偏りのない目で研究されるようになった。にもかかわらず、なお十分とはいいがたい。いわんや朝鮮社会に対する体系的な教育のない日本では白丁や妓生に関するいくつかの論があるばかりで、その先はないに等しい。朝鮮社会における「賤民」は異邦人あるいは共同体のソトの者たちの「同化」に伴う葛藤の歴史でもあり、それは今日の東アジアにおいて再現している問題でもある。しかし、日本では「賤民」を封印したことにより、かれらの生活史などは 皆目、見当がつかないというのが実情であろう。
この封印状態に対する感受性の無さは何にたとえたらよいだろうか。想像力を喚起するためにはこんな比喩が必要かも知れない。教室で机の上に飛び乗り天真爛漫に遊ぶ子供がいた。それは確かに度を越していたが、咎める者はいなかった。だが、ある日、厳格な先生や父兄が現れた。そして、その行儀の悪さは人並み以下の恥ずべきことだと寄ってたかって詰った。…そういえば、その子のことばはどうも共同体の並のことばとは違う。しかも、およそしつけがない。親の生業はしがなく、一家は貧しいし、やることは何やら怖い。
あとは推して知るべし。監視をするか遠ざけるかだ。かれらの生活とこころの遍歴、それを取り巻く人びとの光景はこんな風に喩えられるだろう。そして、わたしたちの多くはかつてはまだどちらの立場にも多少の覚えはあり、十分、分かり合えたのである。では、その「かつて」とはいつか。歴史の上では五百年前のことであるが、心象としてはずっと近い過去でもある。ここでは限られた紙幅のなか、「賤民」史の序をかたることにしたい。

二  広大の登場

どの賤民からはなしたらよいのか知らない。それならば、ひとつクァンデ kwangde (広大)の話からしてみよう。クァンデは高麗末に現れ、朝鮮朝を経て近代まで演戯をつづけた芸能者である。一九世紀はじめ頃にはなおさかんで市井の男女を巻き込み、世の秩序を乱す不逞の輩とされていた。実学者丁若鏞は『牧民心書』刑典の第五条禁暴のなかで「俳優の戯、傀儡の技、儺楽の募縁〔勧進〕、妖言売術者は並びにこれを禁ずる」と記した。そしてさらに、南部の吏属と将校らは奢濫の風を成し俳優滑稽の演戯と傀儡戯にあそびほうけている。みずからがあそぶので、民も罔くそれに加わり「士女奔波、荒淫無度」のさまである。そのため倉庫の税穀も盗まれる。こうした「雑類」は立ち入りを禁ぜよと。
この種の警告は何十何百と出されていたに違いない。しかし、かれらは社会的に貶められながらも市井にありつづけた。以下では、警告や禁止の条文を実録中に探し出すのではなく、かれらクァンデとはいったい何者だったのか、歴史にはじめて現れたときの姿を通してそのころの位相を突きとめておきたい。
朝鮮民俗学の先駆けであった宋錫夏は一九三六年『朝光』に「広大とは何か」を書き、「広大という言葉は、日常よく聞くことばであり、また、およそどんな意味か推測できるが、それをもう少し深くはっきりと解釈しようとすると、輪郭が曖昧になる」といった。そして、冒頭に『高麗史』巻百二十四嬖幸二、全英甫列伝を引用した。以後、多くの広大論が書かれたが、この『高麗史』の記述がクワンデの初出ということは動かない。ところがこの記事は短い挿話仕立てで、解読はやさしくはない。そこでまず、この記事を引用しよう。時は一三世紀末から一四世紀初、高麗が元の支配下にある最中のときのことである。
全英甫は本、帝釈院の奴で金箔を治めることを生とした。かれは元の嬖宦(宦官)李淑の妻兄である。李淑が嘗て王惟紹と党をなし忠宣王(一三〇九-一三)を廃する謀をしたため、忠宣王は王惟紹を誅し、全英甫を家産没収、島流しにした。初、忠烈王(1275-1308)が全英甫に郎将〔正六品武官〕を授けたとき諫官は告身に署名しなかったが、忠宣王の復位後二年に大護軍を授けると、署名された。世論は国王の治世が公平になされるのか憂えた。案の定、全英甫は「有能」の誉れの高い白元恒を私怨から島流しにした。忠蕭王(一三一四-三〇)のとき、全英甫はまた立身の道をたどり官位を得たが、臺諫(理非をただす高官)がやはり署名を拒否した。だが、忠蕭王の計らいで全英甫は結局、評理、賛成事の位についた。
ところで、この忠蕭王が元に留まっていたとき、瀋王の暠(異腹の兄)が王位を奪おうと謀をして奸臣と交構わった。このとき国王は臣下を宰相〔元の宰相か〕のところに遣っていわせた。昔、小広大がいて大広大らに随って水を渡るとき、船がなかった。それで小広大は、この大広大らに「我は短小なので河の深浅を知ることは難しいが、君輩は身が長いから、まず水深を測るのが宜しい」といった。大広大らは咸「然」といい水に入ったところ、皆、溺れ、独り小広大だけが免れた。
ここで忠蕭王は次のようにいった。今、二人の小広大が吾が国にいる。全英甫と朴虚中がそれだ。吾を禍網に置き、晏然と座視するのは小広大そのものだと。そして『高麗史』は「国語仮面為戯者謂之広大(国語では仮面にて戯を為る者を広大と謂う)」と注記した。
ここに当時のクァンデの一面がえがかれている。この短い記事は次のように読むことができるだろう。第一にクァンデには大小の別があった。それは身の丈の区別だけではなく、人となりについてもいったものとみられる。大広大は一見、愚鈍のゆえに死んだかのようだが、愚鈍なだけではクァンデは務まらなかった。それについてはあとでまた取り上げる。
第二に全英甫のような者が国王の周辺にいた事実に注目しなければならない。かれは奴から身を起こし武官となって国王の寵愛を受けた。何回かの浮き沈みをくり返し、最後は「良人百六十人を賤とした」ことが露見し、そのために本籍に戻された。つまりまた奴の身分に落ちた。全英甫にいかなる能力があったのかはわからないが、元の嬖宦と縁戚関係があったことが背景として考えられる。そしてまた口先の巧みな策略家だったのだろう。低い階層から身を起こし舌先三寸で国王の周辺にまで行き着いたことがまさにクァンデの境遇・弁舌にたとえられたのであろう。クァンデもまたそうした浮き沈みを免れない者であったが、同時に国王の周辺にクァンデがいることは日常的な光景だったとみられる。
第三に国王を取り巻く文化的な環境に注目すべきである。それは元の王室の環境とさほど違いがなかったとみられる。そもそも祖父忠烈王が元の正祖の公主を后とし、母(父忠宣王の妃、懿妃)も蒙古人であり、自身(忠蕭王)の妻もまた蒙古人であった。高麗王家は実質的に元帝あるいはその公主(王女)らの意向をそのまま受入れるほかはなかった。政治はいうまでもなく、殊に宗教、文化的な装置は元からはいってきていた。忠烈王九(一二八三)年八月には「元の倡優男女来る、王、米三石を賜う」とあり、その優人らは大殿において「百戯を呈した」(『高麗史』世家)。忠蕭王が国内の政争に危機を感じ、元の宰相に対してクァンデの話をかたらせたとき、国王の身近には真にクァンデとよぶに値する者たちがいたはずである。
第四に、『高麗史』の注記にある仮面戯の広大こそはクァンデの真の姿をものがたるものであった。問題は宋錫夏以来、上記の原文を「朝鮮語で仮面戯をする者を広大という」と解したことである。これについて鮎貝房之進はいう、古来、朝鮮語の意味では俚語、方言などと記したのであり、「国語」をその意味で用いた例はなく、従ってこれは「蒙古ノ国語」というべきだと(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』)。この鮎貝説は検証されることなく今日に至っているが、『朝鮮王朝実録』の用例をみても首肯できる。実録では国語の用例が二十一例みられるが、一例を除くといずれも中国の古典『国語』に言及したものである。ところが唯一、別の用例が正祖二三(一七九九)年五月甲申の条にある。それは清朝第六代乾隆帝の死後、その事績を讃える文を献上したときのこと、そのなかで乾隆帝は「三国の歴史を糺すべく遼、金、元の国語を翻訳した」という。『高麗史』(15世紀前半編述)を編纂した鄭麟趾(1396-1478)らは王朝初期の新進の儒学者で、中国の用例を知っていたはずである。そしてその伝統は朝鮮後期にいたっても守られていた。こうしてみるとクァンデはやはり「元の国語」とするべきである。
第五に元からやってきたクァンデたちは百戯だけでなく、仮面戯を持ち込んだ。そして、そのとき以来、朝鮮の芸能文化は大きく変容していく。その過程は本稿では扱う余地がないが、ただ、クァンデの歴史は異邦人が農本の国に到来したときの典型的な道筋をたどったということだけは述べておきたい。ここにふたつの道がある。ひとつは朝鮮王朝の初期、中期にかけて記録された悪辣な徒党としての才人の歴史をたどる道である。ひとつは歴史の表面からは消えたが、仮面戯、傀儡戯などを世々演じた芸能集団として、その歴史を考える道である。かれらは前述の丁若鏞の記述にもあるように、一九世紀のはじめに至っても民衆の支持を受けていた。しかし、それがまともに歴史に記されることはなかった。
以上のことを踏まえて、ここから先、わたしは後者の道に意味をみいだそうとおもう。何よりも、前者の道は負の集積でしかない。それらは事実あったことだとしても、それだけのことではなかろうか。もちろん不祥事、反抗的な事件には必ず相応の原因があり、それを通していかにひどい抑圧と不条理が横行していたかを糾弾することはできる。だが、それよりも後者の世界を選ぼう。わたしたちはそれをまだ少し瞥見しただけなのである。急ぐべきは、その痕跡があるうちにひとつの歴史をたどりなおすことではなかろうか。
とはいえ、残された資料は少なく、大方は否定的言説である。ここにおいて、わたしは、仮面戯のクァンデに立ち戻ろうとおもう。かれらは一般の俳優の伝統の上に立っていたが、それだけならば古代からの百戯、雑戯の担い手にすぎない。クァンデは何よりも元から到来した新しい優人であったと考えられる。かれらは追儺的な祓いの仮面戯に新機軸を盛り込んだ。朝鮮にも古くから仮面はあったに違いない。それは新羅の憲康王のときに、南山の神の舞を表現した霜髯舞(白髪、ひげ面の神の舞)がおこなわれ、そのあとで仮面が作られたことからも明らかである(『三国遺事』)。また年末の大儺にも素朴な厄払いの仮面戯があっただろう。だが、こうした仮面の舞は祝祷と祓いを主としたもので新たにもたらされたクァンデの仮面戯とは異なっていたとみられる。それでは新しい仮面戯とはどういうものだったのだろうか。

戱의 사람들

三 河回仮面戯の人びと

1村の女神閣氏。


2慰霊。婚礼につづいて初夜の共寝も演じられる。徐淵昊『ソナンクッ仮面戯』より。

3白丁。撮影金秀男。

4牛の睾丸を売る白丁。撮影金秀男。

5両班と学者のあいだで睾丸の効力を吹聴する白丁。撮影金秀男。


6チョレンイ。両班の従者で奇妙な道化。撮影金秀男。

7僧面。撮影金秀男。


8若い女と僧。東アジアでは由緒深い演戯。民俗のなかの僧は好まれる。

9巫女のような老婆が祭祀の場に到来する。


10学者面相は精鬼に通じる。もとは若くして死んだ男の鬼神なのか。撮影金秀男。

11両班のカオは好々爺然としている。撮影金秀男。

慶尚北道安東郡河回洞の仮面戯は高麗中期(李杜鉉)、あるいは後期か末期(一三-一四世紀、徐淵昊)に形成されたとされている。仮面の造形、河回の同族部落の変遷伝承と仮面制作にまつわる伝承などがその根拠であるが、わたしは、さらに次のような理由から『高麗史』のクァンデの登場から前後それほど遠くない時期に形成されたと考える。
それは二点に集約される。第一は、この仮面戯の宗教的基盤に女神の慰霊があり、これは当時の東アジアにおいては新しい観念だったということである。すなわち、伝承では一五歳で嫁いで、子供もなく不幸な死に方をした女性をムラの女神とし、その臨時の鎮魂に最大の根拠を置いていることである。こうした女神が城隍神とされたことは決して古代的な祭祀ではない。それはむしろ、山川への祈祷という例年くり返されてきた古代的な祭祀の上に付加された新しい供養なのであった。ちなみに中国でもやはり、同族祭祀において不幸な死、特に女性の死の弔いが重要なこととなり、のちにはそれを主題とした戯曲(南戯)が発展したが、その萌芽は宋から元にかけての時代であった(田仲一成『中国演劇史』)。こうした死霊供養は葬戯あるいは儺戯に由来するが、これが元のクァンデの演戯の根柢にはあったとみられる。それは宋代の中国に広がった都市文化および仏教文化に由来するものである。
第二に、この仮面戯はムラの女神の慰霊とはいうものの、登場人物がほとんど有象無象の類いだということである。これはやはり霜髯舞などの次元とは別のものである。今日、伝承が錯綜した部分もあるが、河回仮面戯には屠牛の白丁(異本では死刑執行人も登場)、チョレンイ(おどけた儺者)、顎欠け面で片足麻痺のイメ、僧とプネ(妓女)、身寄りない老媼、虚仮にされる両班などが現れる。この登場人物は互いに皆、連環しているようにみえる。白丁は朝鮮王朝中期以降は隔離されたムラで主として屠牛、柳器作りに限定され、良民と交わることもなく蔑まれて生きていくが、河回仮面戯の白丁はまったく別様のイメージである。堂々と跳び回り手斧で牛を一撃のもとに倒し、すぐさま睾丸を取り出す。そして精力増強に良いといって観衆に向かってこれを売らんかなとすると、愚かな両班らが争って買う。無論、人びとは哄笑するが、それは決して嘲笑ではない。これはのちに白丁とされた人びとがまだ社会的な差別を受ける以前の姿だったとおもわれる。かれらは高麗時代は楊水尺、次いで水尺とか禾尺とよばれていて、その出自は胡種(成宗二二(一四九一)年四月戊辰)とみられていた。かれらを異邦人とする見方は『高麗史』列伝趙浚(1346-1405)の項にすでにあり、「禾尺、才人は耕種に事えず民租を坐食し、恒産も無く恒心も無く山谷に相聚まって倭賊を詐称し」ているという。そしてまた「韃靼と禾尺は屠牛をもって耕食に代える」といっているから、高麗の末期にかれらが農本の立場からみると別の存在とされていたことは明らかだ。ただ、一方では州郡、站では「皆、牛を宰って客を饋した」というのであり、禾尺らはなお人びとのあいだで大っぴらに活動していたのであろう。
さて、僧が妓女を見初めて睦び合う演戯は宋代の人気ある演目のひとつであった。「耍和尚」がそれで、中国におけるこの前史には唐以来の婆羅門舞の伝統があり、のちには「大頭和尚」として正月の民俗となった。僧の「破戒」は朝鮮でも日本でもひとしく人気ある演戯で民衆の支持を受けた(『新猿楽記』にそれらしきものがある)。これを仏者の破戒への教訓、また特権化した寺院への諷刺としてもよいが、朝鮮の巫儀「世尊クッ」のなかのあそびにあるように、元来は山からきた高貴なるカミが若い女に新生を授ける演戯というべきであり、江戸期に京都に現れた仮装の「ちょろけん」などもやはり同類であろう。中国浙江省の民俗でも元宵のころに、大頭和尚の演戯をすると、厄除けになるといわれている(俞婉君『紹興堕民』、人文出版社、2008年)。単なる余興でなかったことは確かである。
次に身寄りのない老婆。「両班の家で下仕えの暮らし」をしたことを身世打令で歌うので、そこには本来の「賤民」奴婢の哀感が込められている。ただ異本によれば、この老婆は亭主と離別して全国を漂泊している女性で、あるいは他の仮面戯を参考にすると、歩き巫女のような者であったかもしれない。実際、高麗末期の開城には巫がいて今日あるような鳴り物入りの巫儀をしていた(李奎報「老巫篇」)。また朝鮮王朝初期には共同体を離れて尼僧になったり、勧進行為をして歩く社堂などの女性が多数いた。もちろん、その暮らしは不安定であり、中には道倒れして死ぬ老媼もいただろう。果たして仮面戯の老媼は空しく死ぬ者が多い。弔いの儀をもたらす配役といったらよいだろうか。
河回仮面戯の登場人物はこのようなモノたちであった。こうした雑多な登場人物をひとつの枠のなかにおさめることが果てして可能なのだろうか。それが実は新しいクァンデの演戯のなかでおこなわれたのだといえる。これは宋代の「社」を中心に形成された死霊祭祀のかたちと関係する。田仲一成は宋代郷村の市場の廟を中心に「社会」が形成され、そこで三種の孤魂祭祀がみられたという。第一は正月春節の豊饒儀礼に付随する孤魂祭祀、第二は廟の神がみの誕生日におこなうもの、第三は臨時の大規模な孤魂祭祀で九幽醮とか黄籙斎とよばれるものである(『中国演劇史』)。河回仮面戯は別神クッという十年に一度ほどの臨時の祭祀のなかでおこなわれていて、まさに九幽醮の思想を根柢に持っていた。
九幽醮は道教の斎醮のひとつである。北宋の撰者未詳の「黄籙九幽醮無碍夜斎次第」では孤魂の種類を一二取り上げた。国のために死んだ英雄、文臣、客商、仏僧、道士、工匠、苦役に死んだ者、冤死者、反逆者、犯罪者、自殺者、横死者である。さらにこの数は南宋に至ると二四にもなる(『中国演劇史』)。ところで、同じようなことは仏教でもいっていた。『瑜伽集要焔口施食儀』の末尾には「十類孤魂文」があり、そのなかでは「一切の奴婢、給使」にして貧賤に命を委ねた孤魂、「一切盲、聾、瘖唖、足跛、手なえ」など、また、やもめの身で寄る辺ない孤魂などがあげられた(服部良男『『施餓鬼図』を読み解く』)。この仏教側の救済の視点は水陸会としてすでに南北朝時代にみられた。水陸会はやがて唐末五代以降には隆盛し、実に近現代に至るまで中国の寺院ではこれが維持され、寺院経済の源となるほどであった。もちろん朝鮮にも水陸会は伝わり、民間の巫俗儀礼にまで浸透した。
こうした済度の観念が河回仮面戯の登場人物たちの根柢にあったと考えるのは無理ではない。朝鮮王朝の初期には、山野における施食が問題視され、その禁令がたびたび出された。世宗は、僧徒と士女が音楽を奏で「百種施食」といって死者供養をしたことをきいて激怒した(世宗二七<一四四五>年七月丙戌)。朝鮮朝のこの施食は高麗時代に受容した水陸斎〔水陸会〕を受け継いだものであるが、もとは宋代の孤魂野鬼に対する済度の儀であった。なぜそうしなければならなかったのか、それはムラ、地域共同体にとって寄る辺ない者の死が災厄を引き起こすとみなされたからである。儒者の合理主義からいえば、野垂れ死にした者のために浪費に満ちた呪いをしたところで、天災や飢饉は防げないし、鬼神への施しといって飲食物を水に投げ入れるのは愚昧の極みであった。しかし、天災や飢饉は身寄りのない死と関係があるとみて最後までこの施食の儀をおこないつづけたのが、宋元代以降の東アジアの民衆思想であった。これは祭儀としては道士や巫覡に担われ、また祭祀芸能としては儺者、クァンデにより担われ、わけても女性の世界に浸透した。そして、同時代の朝鮮と日本に伝わり仮面戯や傀儡戯として花開いたのである。日本の能楽が「男女の根をかくす事」もない不埒な法体の芸能者の唱導、田楽のようなものの集団的狂躁、そして勧進などの上に現れてきたことはすでにいわれている(松岡心平『能~中世からの響き~』)。これは高麗時代の末期の芸能空間でもあった(ちなみに盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』によれば、一七世紀初になお「高麗人」や「唐人」の放下が貴顕の邸に参候した例がある)。
そうした芸能の根柢にあるものは孤魂野鬼の済度であった。ただここで、より一層注目されるのはその済度の儀に生命の胎生という演戯が付加されたことである。中国でも水陸会の儀のなかに子を授ける図像がみられるし、済州島の巫俗儀礼でも「水陸の儀」は子供を授ける寿祷なのである。また全羅道の死霊済度の儀礼中におこなわれたタシレギは出産の寸劇を含んでいるが、これは「再びの生まれ」だとされ、名称からして生命の連鎖を意味していた。宋代の都市で耍和尚が好まれ、それが周辺に伝わり、また民俗化して伝承されたのもこの脈絡の上にある。朝鮮や日本では仮面戯のなかで出産を演じるものがある。
このようにみることによって朝鮮のクァンデたちの相貌がより深く示される。かれらは異邦人であり、また何よりも孤魂野鬼の済度を演戯する新しい芸能者であった。その本質は死霊に近く、滑稽猥雑な演戯とはまったく異なる鬼神の相貌もあった。そしてそのことで畏れられることはあっても、かれらは決して蔑視されるような者ではなかった。

四 朝鮮王朝の賤民たち

元からきたクァンデの演戯はムラや地域共同体の安寧と生命の連鎖を回復するためのものであった。しかし、朝鮮王朝をはじめた儒者たちはこのような観念は到底、容認しえなかった。朝鮮王朝の初期一〇〇年ほどは、高麗王朝の遺物を清算するのに力を尽した感もある。特に思想面では仏教とそれにかかわる「淫祀」の類いは容赦なくこれを禁じた。またのちの賤民の生成につながる施策がさまざまに実施されていく。太祖二(一四〇二)年一二月には「公私賤口、工商、巫覡、倡優、妓生、僧尼の子孫で官職を不当に得た者には一切田地を与えぬこと」とした。逆にいえば、この時代まで、かれらの子孫は官職につく者もあったということである。全英甫のような者は珍しくはなかったのだろう。
また太宗の時代には寺社が革罷され、素性の宜しくない僧は還俗、あるいは地方に追放させられた。農は天下の大本であり、才人、禾尺の類いの非農業民の定着、同化は不可避であった。移動する人びとに対する禁圧は徹底していて、才人、禾尺は「姦淫と盗みをし、殺人もする」(世宗四<一四二二>年一一月丁丑)という評価は末永く引き継がれていて事例は枚挙に暇がない(成宗二<一四七一>年二月辛酉、中宗三六<一五四一>年五月己亥など)。事実としてそういうこともあっただろうが、予断も少なくない。一方では、才人、禾尺を白丁と命名し農民と婚姻させ(世宗五<一四二三>年八月乙酉)、雑処させた(世宗九<一四二七>年一一月辛亥)。あるいは戸籍に載せ、平民や公私賤人と結婚させる(世宗三〇<一四四八>年四月甲子)といった同化策を推進しもした。
しかし、「才人、白丁」はもともと紘歌、宰殺に慣れていて今なお改めようとしないとされた(睿宗一年(一四六九)六月辛巳)。ここでは才人と白丁が並列されている。この頃以降になると、才人は芸能者、白丁はもっぱら屠畜と柳器造りというように区別されるようになる。とはいえ、元来「白丁」と命名されたとき、そこには才人も含まれていたのであり、両者が全く別の者となったともいいきれない。たとえば、京城の成均館の周辺にいて儒教の祭祀用に牛肉を準備した泮人たちはやはり交婚を忌まれる者であったが、一方で山台劇(サンデノリ)とよばれる仮面戯をおこない、京城だけでなく、近傍の楊州などにもでかけた(秋葉隆「山台戯」)。かれらは屠畜も芸能も担ったのであり、そのありかたはむしろ高麗時代のクァンデ、また朝鮮朝初期の白丁のそれをよく引き継いでいたとおもわれる。 
才人、白丁の移動は一六世紀半ば以降には大きな問題とならなくなったのだろう。王朝実録の記録は少ない。特に白丁は屠畜を専らとするか、あるいは軍卒として徴集されるようになった(かつて才人、禾尺は済州人とともに軍卒に編入された。『高麗史』世家恭愍王五(一三五六)年)。ここで注目されるのは朝鮮朝後半になると、「大抵の陸民は海夫を視ること殆ど屠牛担と同じ」であって、このため一度海夫として登録されると平民と相抗うことができず、子孫は皆、身分を隠そうとしたことである(正祖二四(一八〇〇)年四月戊戌)。この前史は済州島出身者に対する視点として一五世紀にすでにみられた。すなわち「済州の豆禿也」 という者たちが慶尚南道の海岸で船住まいをしつつ魚を捕りワカメを採取しているが、かれらは海辺の掠奪者になりうる者なので徐々に手なづけるようにという趣旨の訓令が出されている(成宗八(一四七七)年五月己亥)。
これとは別に済州の海民は「鮑作干」とか「鮑作人」ともよばれ、やはり倭寇に類いする者とみられていて、離反させないようにということばが王から出されている(成宗一六(一四八五)年、同二〇(一四八九)年)。かれらは貴重な鮑を採って進上する者なので一方では有用であった。またかれらには「頭無岳」とか「頭禿」という別称もあった。そして倭賊に匹敵する船の使い手で活用すれば有益だとされた(成宗二三(一四九二)年)。頭無岳は漢拏山の別称だが、頭禿はあるいは坊主頭に由来するのかもしれない。中国宋代には、僧、尼、老翁、小児、優伶、角觝(相撲)、泗漁漢(漁師)、打狐人(猟師)、禿瘡(しらくものあとの光った頭)、洒禿(すっかり光った頭)は「十様の仏」とされた(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』)。すなわち坊主頭の者たちで、これらの大半がやがて一人前の良民の部類から区別、差別されていった。そして、良民と区別された者たちの婚姻はクァンデと巫堂(巫女)、白丁と社堂など「賤民」同士のものとなっていく。
さて、僧、僧尼が民間で祈祷や祭儀をおこなうことはいうまでもなく禁圧の対象であった。しかし、たとえば水陸斎は朝鮮朝半ばになお、おこなわれていて、「都中の士女が撤市し奔波」した(宣祖三九(一六〇六)年六月己亥)。官憲がこうした行為を処罰するのは当然で、その積み重ねが結局、民間の宗教者とその賛同者を社会的に貶めていく。
朝鮮朝の初期には、「遊女」や「花娘」となる者もすでに多く、ほかにも礼曹の上申によれば、僧の群れに引き込まれ尼となった女たちがいた。また商人らが良家のむすめたちをたぶらかして淫女にすること、無頼漢に伴われた女たちが身を売ることも指摘された(成宗三(一四七二)年七月乙巳)。こうした現象は必ずしも暴力やカネだけで強いられたものではなかっただろう。それは相応に女の側の主体的な行為でもあったとみなければならない。しかし、こうした者たちは「小中華」にあってはならないので取り押さえられた。それは厳しいもので、違反者の行く末は奴婢つまり賤民になることであった。
同じことは「社長」とそれに従った女たちについてもいえる。社長とは社倉の長である。社倉は朱子のはじめた社倉法にならって導入された民衆救済用の倉庫である。ここに備蓄された穀物を秋に低利で貸し出したが、社長はこの制度を私物化していく。社長は僧であることもあった。また、居士を名のることもあった。お上にとって、かれらは男女の群れをなし、生業を捨てて差役を逃れ、錚と太鼓を鳴らしてどこにでも出歩くことなどの点でとうてい容認できなかった(睿宗元(一四六九)年、六月辛巳)。この一団は当初は京城内で「社」を結成し、そこを念仏所として集団生活をした。かれらは仏道に帰依するだけでなく朝には市利をむさぼり夜は阿弥陀仏を称えた。しかも、こうしたことに街中の婦女子があこがれるありさまであった(成宗二(一四七一)年六月己酉)。だが、居士と社堂は王朝後期には、歌舞と売淫で知られるだけのしがない放浪芸人集団のひとつとなっていく。
才人、白丁、海民、僧、僧尼、社長、居士、社堂らが厳しく規制されていくなかで、巫覡もまた同様に規制され卑賤視されていく。その朝鮮王朝における記述の分類、整理は李能和の「朝鮮巫俗考」(邦文「朝鮮の巫俗」)に詳しい。詳細はそちらに譲るが、次のことは記しておきたい。すなわち巫覡の祭儀、都城への居住に対して、官憲は執拗に幾度も弾圧を加えたが、高宗(一八六三ー一九〇七)の時にもなお宮中には国巫の出入りがみられたのであり、結局、禁巫の政策は成功しなかった。そしてその根本の原因は根柢に朱子学では代替しようのない民衆(特に女性)の霊魂済度つまり救済があったからである。実際、王朝初期の巫は医員でもあり東西活人院(貧民救済施設)で医療行為もした。理論書も組織もなく、文字も知らない巫覡に何ほどの論理があるのかといった知識人の視点では巫俗を正面から見据えることはできなかった。このようなものが何故五百年ものあいだつづいたのか。
それへの回答は王朝の知識人からは出されなかった。そして、それは朝鮮王朝の崩壊後、一九二七年になってはじめて李能和により宗教学に値する視点で体系的に述べられた。だが、それすら早すぎたのか、反応はなかった。李能和にももちろん不足はあるが、その一連の業績が、『朝鮮仏教通史』「朝鮮巫俗考」、『朝鮮女俗考』、『朝鮮解語花史』(妓生の文化史)といった経過をたどっていることを的確に批評する者がいたならば、少なくともそこに朝鮮の女性生活史が述べられていたことに気づいたはずである。それは一方で朝鮮の「賤民」史と深くかかわっていたのである。しかし、そうした基軸は今だに明確にはされていない。このことは朝鮮の近代の学知、ということは中国と日本の速成知としてはじめられた近代の学知の系譜が抱えていた最も大きな限界点でもあった(山室信一『思想課題としてのアジア』、その近代アジアの学知に対する俯瞰、周到な検証作業を参照のこと)。

五 免賤と近代

知識人の近代、かれらの認識がどうであれ、朝鮮王朝の「賤民」たちにも近代は迫り、やがて通過していった。このときかれらはどのような生活を迎えたのか。ご多分に漏れず、大方はわからない。クァンデについていえば、十七、八世紀以降、パンソリが起こると、この歌い手のなかから芸術家気質の歌客も現れる。それは唯一クァンデが身分の上昇を実現させうる道でもあり、そのために歌唱法も猥雑さを殺ぎ哀調を深く表現する方向へと幅を広げた。これは日本の能のたどった道と一面では似ていた。しかし、そうした歌客は少数であり、大方のクァンデは民間の放浪芸人として世をわたった。特に仮面戯や傀儡戯のクァンデに対しては社会的な評価が低く、宋錫夏なども「広大自身の自覚が必要」といい、「理論家や音楽家との提携」がなければ将来はないとみていた(「伝承音楽と広大」)。
それは余りにも高望みした批評であるが、近代の西洋演劇や音楽の衝撃を受けた当時の知識人としてはやむを得ないところがあっただろう。ただ、王朝の後半期、両班層の道徳性の欠如、無能ぶりに対して、仮面戯のなかで、愚かな両班が下僕により完膚なきまでに愚弄される場面は、やはり、近代に接近して発展を遂げたものというべきで、そこには時代意識が反映されていたといえよう。もともと、お供が主人をやりこめるモチーフは異邦人クァンデの演戯のなかにはあった。それは中国でいえば、唐代の参軍戯[ぼけ(参軍)とつっこみ(蒼鶻)の対話による演戯]以来の古い伝統であり、高麗の優人、そして仮面戯や傀儡戯のクァンデたちに受け継がれてきたものである(朝鮮朝の燕山君時代の優人は王前にあって諷刺の演戯をし、処罰された。それはこの王の前では命がけのことであった)。そしてまた、日本の猿楽の芸、京都に現れた自然居士らの禅僧にみられた奔放さ、狂言の笑いなどにも同様の諷刺の精神が見て取れるだろう。
だが、そうではあっても、今日に伝承されている仮面戯の両班諷刺の台詞は、その鋭さにおいて参軍戯や「狂言」のレベルをはるかに越えていた。たとえば下僕マルトゥギは主人に向かって口答えをする。しかもその際、両班の血に両班以外の血が混ざっていると罵り、また「大奥様(母親)」を取り上げては性的な悪罵を盛り込んだことをいう。しかもちょっと聞いただけでは意味がわからない。そこで、また修辞を変えて同様のことをいう。こうして下僕のことばはより強い愚弄となり、ほとんど抵抗のことばになっていく。
とはいうものの、王朝も消滅し、植民地に放り出されたクァンデらはすべてが旧時代の遺物として生きていくほかはなかった。そのさまは映画『西便制(風の丘を越えて)』に活写された。金明坤扮するドサ回りの歌い手ユボンが宴席で片意地を張る。そのため、客の男から「才人(河原者)のくせして」と罵られる。すると、ユボンは「このご時世にまだ両班だとか才人だとかいうのか」といい返す。それは近代のクァンデらのせいぜいの代弁であっただろう。だが、パンソリをもって回るクァンデの時代は去ってしまった。
さて、賤民中、最下層とされた白丁の近代はどうであったのか。朝鮮の近代史上よく知られた一八九四年の甲午更張(甲午改革)のなかで、軍国機務処は一二カ条の提議をしたが、そこに「駅人、倡優、皮工、竝びに免賤を許す事」があり、これを国王は承認した。このうちの「皮工」は皮作りを担った者たちで多くの白丁とは職域が異なるが、ここでは白丁も含まれるとみられる。かれらは、これにより強制された仕事からは解放されることになった。しかし、そののちも白丁に関する状況は変わらなかった。今村鞆がいち早く白丁を論じ、継いで今西竜、喜田貞吉、李覚鐘、岩崎継生、鮎貝房之進などが日本語で論究した。
これらを通して分かったことは、王朝の末期の白丁は戸籍がないので族譜もなかった。名前に仁義などの語は用いることができず、日常生活では、周衣(外套)、被り物、喪服、女性の簪の着用ができず、婚礼時の乗り物、葬礼の喪輿も禁止され、良民へのことばづかいは子供に対してもへりくだった。そして、甲午改革以後、戸籍を与えられたとはいい条、そこには「屠漢」の字が記され社会的な差別は依然としてあった。
ただ、白丁たちは王朝時代にも「承堂都家」という扶助機関を持っていて、各地に支部があった。こうした組織があったためか、日本で水平社の創立があった翌一九二三年五月、朝鮮でも慶尚南道晋州において衡平社が組織され、平等への宣言が出されると、瞬く間に全国に広がり社員公称四〇万人の一大社会運動となった。それは周囲からの激しい反発を引き起こしたものの、一九三〇年ごろまでは活発に展開された。だが、やがて路線問題から葛藤が生じて、退潮に向かい、一九三五年、名称を大同社と変更したあと、経済活動を主とした機関となり、それも一九四〇年ごろを境に終焉した。解放後は朝鮮戦争の大混乱のなか、白丁の特殊部落は霧散し、社会的に差別されることがなくなったとされるが、白丁を主題にして創作活動をつづけた作家鄭棟柱は現在も「差別意識は残っている」とし、とりわけ知識人のあいだにそれが強いという。そして、晋州に衡平運動の記念館を作り、白丁の暮らしと歴史に関する資料を展示することを提案したが、衡平運動の研究者として知られる知識人がそれに異議を唱えたということをいっている(『神の杖』)。それだけ白丁の問題は生々しいということなのだろう。今日なお、晋州市に公設の記念館はない。

六 考えるよすがとしての「賤民」

朝鮮半島では解放後も白丁村、才人村、在家僧(咸鏡道の山間部にいた坊主頭の人びとで差別された)の村などが残っていたが、現代には南北いずれの社会にも存在しない。ただし、白丁や巫堂の家系への差別的視点がなくなったわけではない。差別意識が払拭されたか否かは世代、地域によっても異なるだろう。みずからの姓氏が偽両班家門だと公表した歴史家がいるとはきいたが、白丁、巫堂の家系だということを名のることはおよそ考えにくい。できればそうしたことは公にしたくないというのが韓国社会の公約数であろう。そこまで突き詰めれば差別は消えていないということになる。また、近い過去では全羅道出身者が政治経済の中枢から不当に遠ざけられるという新手の差別があったし、あるいは中国の東北地域、延辺などからくる出稼ぎの朝鮮族同胞や東南アジア出身の労働者に対する差別が一部にはある。白丁や巫堂はたとえ、経済的に潤っていても怖い者とされ、おそらくそれゆえだろう、接触したくないといった先入観は強く残っていた。こうみると、近代日本の社会が屠畜、皮革業、あるいはサンカや家船の人びと、また「首切り弾衛門」(死刑執行人)などに対して怖れ差別した状況とあまり変りがないことになる。
ただし、歴史のなかの差別を公然と論じるという点では明白に異なる。例えば二〇〇二年二月六日、韓国のSBS放送は旧正月の特別番組にドラマ「白丁の娘」を放送した。韓国ではひと頃テレビ報道があまりに批判精神を失ったため、「馬鹿箱」とまでいわれたが、九二年の文民政府以降は考える素材を提供する媒体という一面を取り戻している(軍事政権の裏面、その最後の悲劇「光州」を活写したドラマ「砂時計」<1995年、SBS放映>を知らない韓国人はいない)。さて「白丁の娘」だが、これは二〇世紀初にあった実話に取材したもので、なかなか重いドラマである。白丁の父を持つオンニョンという名の女の子が宣教師の医者と出会い、梨花学堂で近代教育を受ける。父親は胸に白丁の印である布切れを付けないことで役人から殴打され、急患の往診も断られる。母親は広場の群衆により「白丁閣氏馬乗り競争」という残酷な遊びの馬にされる。母親は凌辱に耐えられず自殺する。母親の葬儀に喪輿を用いようとすると、村人により喪輿は叩き壊される。こうしたことは実際にあっただろう。そして、梨花学堂の六年間の勉学が終わり、卒業式の席上、代表に選ばれたオンニョンは講堂に参席した大勢の人びとの前で、自分が白丁のむすめであることを告白した。
ドラマは冒頭に日本軍による朝鮮人の体格、体質検査に白丁が強制動員された史実を置き、途中、王朝末期以来の白丁家族の受難をえがき、やがてオンニョンの勇気ある告白と聴衆からの祝福の拍手で終わる。大団円風の終わり方がいささか気になったが、それは、差別は所詮、構築物にすぎないものであっけなく崩壊しうるのだというメッセージなのかもしれない。いずれにしても近代の白丁を考えさせる素材には十分なっている。このドラマを現在の韓国社会がどのように視聴したのかは分からない。ただ少なくとも韓国社会が数十年前まで存在した苛酷な社会差別の歴史を正面から考えようとしたこと、そうした考える風土があることは注目してよい。
もちろん、今日の韓国にも、モノ余りの日常、「自由」を持て余す若い世代は少なからずいて歴史離れもまたみられるところである。
しかし一方では、日本の統治、朝鮮動乱、軍事政権下の民主化闘争などによる痛みを肌で知る人びとが健在で、それを語り継ぐ社会風土が存在する。享楽にも大胆だが、痛みにもまた敏感な社会である。もちろん、それがすなわちすべての差別の解消に直結するとはいえないだろう。
しかし、翻って今日の日本で被差別民の近代を主題にしたドラマを正月番組に放映することなどが可能だろうか。まずそういう主題は企画にすらのぼらないだろう。そうして一方では、現実のさまざまな痛みがいよいよ複合的に再生産されている。歴史の痛みに鈍感な社会が現実の痛みに敏感であるはずはないから当然である。そして案じる、「わたしたちのテレビメディアなどは「不適切な用語」を取り除くことにはいたく熱心だが、歴史の痛みを根治させるための本道をたどることにはすっかり度胸がなくなり、それこそ日々「馬鹿箱」に近づいているのではないか。そうして日本という共同体はまさにその無批判、鈍重さによる束の間の安泰を貪っているだけではないのかと。
賤民とされた人びとの歴史、それは今、封印を解かれなければならない。そしてのち、はじめてわたしたちは東アジアの同時代性を再認識できるだろう。彼らを含めた同時代的な共同体はつい五、六百年前には確かにまだみられたのである。そして、そうした在り方、生活の様相を具体的に知れば、実は差別意識の多くは存外近い過去に植え付けられた代物に過ぎないということがわかるだろう。
朝鮮半島の「賤民」は東アジアの基層文化の諸相に迫る関鍵のひとつなのである。これは知らずに済む問題ではない。 (2008年10月5日 補遺)


参考文献(文中に引用したもの

巫覡、クァンデの民俗宗教的背景について
野村伸一「朝鮮文化史における死者霊の供養」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』
No.28、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年

妓生、奴婢、白丁、寺僧、巫堂などについて
安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八二年
安宇植編訳『続・アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八八年
林鍾国『ソウル城下に漢江は流れる』、平凡社、一九八七年
川村湊『妓生』、作品社、二〇〇一年

楊水尺・禾尺・水尺、才人、白丁について

今村鞆「朝鮮の特殊部落」『朝鮮風俗集』、斯道館、一九一四年
今西竜「朝鮮白丁考」『芸文』九巻四号、一九一八年
喜田貞吉「朝鮮の白丁と我が傀儡子」『史林』九巻九号、一九一八年
李覚鐘「朝鮮の特殊部落」『朝鮮』一〇四号、一九二三年
岩崎継生「朝鮮の白丁階級:特殊部落-形態」『朝鮮』二一一号、一九三二年
鮎貝房之進「白丁、附水尺、禾尺、楊水尺」『雑攷』五輯、一九三二年(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』国 書刊行会、一九七三年復刻)
金静美「十九世紀末・二十世紀初期における「白丁」」飯沼二郎、姜在彦編『近代朝鮮の社会と思想』、未来社、一九八一年
杉山二郎『遊民の系譜』、青土社、一九八八年

衡平運動について

金中燮『衡平運動研究』、韓国社会科学研究所、肯慎紫、一九九〇年、ソウル
金永大著、『衡平』翻訳編集委員会翻訳・編集『朝鮮の被差別民衆』、部落解放研究所、一九八八年

巫覡の歴史について

野村伸一「李能和「朝鮮の巫俗」註(上)」および「李能和「朝鮮の巫俗」註(下)」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』No.28、No.29、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年(これは李能和「朝鮮の巫俗」雑誌『朝鮮』、朝鮮総督府、一九二八ー二九年に七回掲載されたものの復刻で、それに訳註を付したもの)

芸能史および仮面戯

野村伸一『仮面戯と放浪芸人』、ありな書房、一九八五年
李杜鉉『朝鮮芸能史』、東京大学出版会、一九九〇年
田耕旭『韓国仮面劇 その歴史と原理』、悦話堂、一九九八年、ソウル(法政大学出版局から邦訳2004年刊)


「천민」의 문화사서론―한반도(朝鮮半島)의 피차별 국민(보유)노무라(野村) 신이치(伸一)

*부기 본론은 「「천민」의 문화사서론」 『몇이나 되는 일본 5』, 이와나미(岩波) 서점, 2003년, 161-190페이지의 원고에 보정을 첨가한 것으로 한다 (2008.10.19).

1 「천민」의 문화사

천민이라고 하는 말은 오늘 일본에 있어서 공공의 장소에서는 이용하지 않게 될 모양이고, 신문이나 방송으로 견문하는 것은 우선 없다. 그리고, 그 것에 대하여 특히 이의를 외치는 공론도 없는 것을 보면, 일본문화는 대부분에 있어서 이미 그러한 것을 논할 필요도 없는 단계에 있다고 하는 것일 것이다. 일본 사회에 까닭이 없는 「얕보기」에 고생하는 사람들이 없으면 그것이라도 좋은 셈이다. 그러나, 현실은 그렇지 않을 것이다. 「부적절한 말」을 배제하고, 와 수선은 매우 조심하지만, 차례로 쑤시자마자 아픔에 유래하는 불협화음이 들려온다. 그 목소리, 소리가 사회의 어떤 한 구석에서 나오는 것일지는 예상도 붙지 않지만, 그것이 목소리가 안되는 안타까움으로부터 발해진 것에는 차이가 없다.
여기서 조선의 민중문화사를 되돌아봐 보자. 그것은 사실은 「천민」으로 여겨진 사람들의 목소리 없는 역사와 불가분한 것이다. 조선 왕조후반에는 통념으로서 「7반공賤」이라고 하는 것이 말하여졌다. 다시 말해, 그것은 기생, 안인 (궁(신사)여자), 관리족, 역졸, 감옥령(옥졸), 관노비, 유죄의 도망자다. 또 「8반나賤」이라고 하는 것도 말하여졌다. 다시 말해 그것은, 승려, 영인(즐거움 다쿠미(工)), 재인(강변자), 무당, 捨당(사회당), 행동사 (거사), 鞋장인, 흰정이다 (이마니시 류(今西龍) 「조선 흰정생각」참조). 더욱 맹인의 복사, 어부, 해녀, 산척 (산에서 약초등을 채집하는 사람), 각종의 장인인, 나노비등도 천민시 되었다.
이 사람들을 둘러싼 적어도 500년의 문화의 역사는, 조선의 사회 생활사 바로 그것이다. 물론 오늘, 천민등이라고 하는 말은 장난삼아서라도 대인관계에 있어서 사용해서는안되고, 그 의미에서는 눈에 익지 않는 말이며 좋다. 그러나, 그것은 역사 위에서, 그들이 정확한 위치 부여가 행해지고 있으면 의것이다. 천민으로 여겨진 사람들은 역사의 처음부터 그랬던 것은 아니다. 그 대부분은 조선 아침의 처음에는 양민(백성)의 종류이며, 단지 유교의 예의에 준한 생활을 하지 않은 것 만큼이다. 고려(高麗)시대, 흰정은 양민(백성)을 가리키는 말이었다. 또 조선 아침의 초기의 천민은 공사의 노비만이었다 (유(劉) 쇼(承)원 『조선 초기 신분제 연구』).
그러면, 이 사람들은 어떻게 「천민」으로 여겨져 간 것인가? 이것은 조선 왕조가 일관한 왕화,혹은 교화의 정책이 왕조후반이 되어서 부차적으로 만들어 낸 것이라고 할 수 있자. 요컨대, 노비에 역적 또는 포로의 적대자라고 한 규정이 있는 것이라고 같이, 이유는 그대로 두어 화외의 국민이 되지 않을 수 없었던 사람들,혹은 왕화의 【소토】에 스스로 나간 사람들이 서서히 천민으로 여겨진 것이다. 왕화의 【소토】에도 상응한 공동체는 있었지만, 그들은 왕조사회의 안에서는 (아뭏든)뭐라고 항변의 하는 방법이 없는 부조리한 현실을 지나쳤다. 단, 그들의 안 되는 세계는 어땠던 것인가가 되면, 그렇게 간단하지 않다.
예를 들면, 천민안에서도 한층 더 얕봐진 흰정들은, 왕조의 후반에 있어서는, 수육의 屠畜을 거의 독점적으로 취급, 경제적으로는 여축이 있는 사람도 많았다. 그들은 농민들과는 다른 「특수부락」을 형성시켜졌기 때문, 그 전승하는 생활 형태는 내버려둬졌다. 그러한 흰 데이(丁)촌의 내부에서 죽이기소의 전후에 해진 예의는 흰 딱 하고 소와의 사이에 조화가 예약한 세계가 있었던 것을 시사한다. 우선 屠장소는 청정할되어, 승의 염불이 있어, 소에 대하여는 큰 자귀로 급소를 2도 쳐서 신속하게 죽게 한다. 그리고 신성으로 여겨지는 왼쪽에신의 지팡이(칼)을 가지고, 소의 영혼의 제도를 다하기 위해서는 예리한 칼을 준비한다. 이러한 것의 일단은 예를 들면, 흰정에의 진혼이라고도 말해야 할 정(鄭)동 기둥의 작품 『신의 지팡이』에 그려지고 있다.
그러나, 그 흰정에 대해서도 근현대부터의 소급이 대부분이어서, 근세의 실태는 잘 모르다. 같은 것은 다른 천민에 대해서도 말할 수 있다. 그런데, 그러면 문제를 어떻게 설정하면 좋은 것인가? 나는, 천민의 대부분은 조선 왕조의 처음에는 없었다고 생각한다. 거기에서, 분기점이 된 조선 왕조 초기의, 이른바 기다리는 ろわぬ국민을 집어들어 보고 싶다. 그들의 역사는, 오늘, 한국에 있어서 비교적 치우침이 없는 눈으로 연구되게 되었다. 그럼에도 불구하고, 한편 충분히는 말하기 어렵다. 말할것도 없이 조선 사회에 대한 체계적인 교육이 없는 일본에서는 흰정이나 기생에 관한 몇 가지의 이론이 있을 뿐이어서, 그 앞은 없는 것에 마찬가지다. 조선 사회에 있어서의 「천민」은 이방인혹은 공동체의 【소토】인들의 「동화」에 따르는 갈등의 역사이며, 그것은 오늘 동아시아에 있어서 재현하고 있는 문제이기도 한다. 그러나, 일본에서는 「천민」을 봉인한 것에 의해, 그들의 생활사등은 도무지, 짐작하지 않는다라고 하는 것이 실정일 것이다.
이 봉인 상태에 대한 감수성의 없음은 무엇에 비유하면 좋을 것인가? 상상력을 환기하기 위해서는 이런 비유가 필요일지도 모른다. 교실에서 책상 위에 뛰어 올라타 천진 난만하게 노는 어린이가 있었다. 그것은 확실히 정도를 넘고 있었지만, 책망하는 사람은 없었다. 그러나, 어느 날, 엄격한 선생님이나 부형이 나타났다. 그리고, 그 예의 범절의 나쁨은 보통사람 정도이하의 마땅히 부끄럽게 여겨야 할 것이라고 여럿이서 밀렸다. … 그러고 보니, 그 아이의 말은 정말로 공동체의 보통의 말과는 다르다. 게다가, 약 예절교육이 없다. 부모의 생업은 보잘 것 없고, 일가는 가난하고, 하는 것은 무엇인가 무섭다.
다음은 미루어 알 수 있다. 감시를 할지 멀리할지다. 그들의 생활과 마음의 편력, 그것을 둘러싸는 사람들의 광경은 이런 식이게 비유할 수 있을 것이다. 그리고, 우리들의 대부분은 예전에는 아직 어느쪽의 입장에도 다소의 기억은 있어, 충분히, 알아 합 얻은 것이다. 그러면, 그 「예전에」와는 언제인가? 역사 위에서는 500년전이지만, 심증으로서는 쭉 가까운 과거이기도 한다. 여기에서는 한정된 지폭의 안, 「천민」사의 서를 이야기하기로 하고 싶다.

2광대의 등장

어느 천민에게서 이야기하면 좋은 것일지 모른다. 그것이라면, 하나【관데】 kwangde (광대)의 이야기로부터 해 보자. 【관데】는 고려(高麗)말에 드러나, 조선 아침을 경과해서 근대까지 演戱를 계속한 예능자다. 19세기 시작경에는 한편 왕성해서 시정의 남녀를 말려들게 하고, 세상의 질서를 어지럽히는 괘씸한 나(패거리)로 여겨지고 있었다. 실학자 정약용(丁若鏞)은 『마키(牧) 민심서』형전(전서)의 제5조(五條) 금령폭의 안에서 「배우의 戱, 괴뢰의 기법, 儺즐거움의 募인연 〔권함〕, 요사스런 말 판매시술자는 및 이것을 금한다」라고 기록했다. 그리고 더욱, 남부의 관리속과 장교들은 奢濫의 바람을 이뤄 배우 나메라(滑)稽의 演戱와 괴뢰戱에 노는데 정신이 팔려 있다. 스스로가 놀므로, 국민도 그물 망 똥れ에 가해져 「남녀奔물결, 황음무도」의 님이다. 그 때문에 창고의 세穀도 도둑 맞는다. 이러한 「잡류」는 출입을 금해라고.
이 종류의 경고는 몇십몇백과 내놓고 있었던 것이 틀림 없다. 그러나, 그들은 사회적으로 깎아내릴 수 있으면서도 시정에 계속해서 있었다. 이하에서는, 경고나 금지의 조문을 실록중에 찾아내는 것이 아니고, 그들【관데】와는 도대체(일체) 누구이었던 것인가, 역사에 처음으로 나타났을 때의 모습을 통해서 그 시기의 위상을 밝혀 내 두고 싶다.
조선 민속학의 먼저 달려듦이었던 송석하는 1936년 『아침 빛』에 「광대는 무엇인가」를 쓰고, 「광대라고 하는 말은, 일상 자주 듣는 말이며,또, 대충 어떤 의미인가 추측할 수 있지만, 그것을 좀더 깊이 확실하게 해석하자로 하면, 윤곽이 애매해진다」라고 했다. 그리고, 첫머리에 『고려(高麗)사』권 124嬖고지(幸二), 전영보 열전을 인용했다. 이후, 많은 광대론이 씌어졌지만, 이 『고려(高麗)사』의 기술이 【구완데】의 첫 출현이라고 하는 것은 움직이지 않는다. 그런데 이 기사는 짧은 삽화재봉(바느질)로, 해독은 상냥하지 않다. 거기에서 우선, 이 기사를 인용하자. 때는 13세기말로부터 14세기 처음, 고려(高麗)가 원래의 지배하에 있는 한가운데의 때다.
전영보는 책, 다이샤쿠원의 놈으로 금박을 다스리는 것을 순(숫)으로 했다. 그는 원래의 嬖宦(환관)이(李)淑의 아내 형이다. 이(李)淑이 전혀 왕유소와 당을 없음 충선왕(1309-13)을 폐지하는 꾀를 했기 때문, 충선왕은 왕유소를 죄인을 죽이고, 전영보를 가산몰수, 유배로 했다. 처음, 충렬왕(1275-1308)이 전영보에게 낭 마사시(將) 〔다다시(正)6품 무관〕을 하사했을 때 諫관은 고몸에 서명하지 않았지만, 충선왕의 복위후 2년에 다이(大) 유즈루(護)군을 주면, 서명되었다. 여론은 국왕의 치세가 공평하게 행해지는 것일지 근심했다. 예상대로, 전영보는 「유능」의 명예가 높은 백원 히사시(恒)를 사원으로부터 유배로 되게 했다. 충蕭왕(1314-30)의 때, 전영보는 또 입신의 길을 따라 관위를 얻었지만, 臺諫(시비를 질문하는 고관)이 역시 서명을 거부했다. 그러나, 충蕭왕의 조치로 전영보는 결국, 평이유, 찬성 것의 지위가 올랐다.
그건 그렇고, 이 충蕭왕이 바탕으로 머무르고 있었을 때, 瀋왕의 暠(이복의 형)이 왕위를 빼앗자고 꾀를 해서 간신과 交構 나누었다. 이 때 국왕은 신하를 재상 〔원의 재상인가〕의 곳에 사용해서 시켰다. 옛날, 소광대가 있어서 오히로(大廣)대들에게 따라서 물을 건널 때, 배가 없었다. 그래서 소광대는, 이 오히로(大廣)대들에게 「나는 단소하므로 강의 심천을 아는 것은 어렵지만, 너나(패거리)는 몸이 길기 때문에, 우선 수심을 재는 것이 좋다」라고 말했다. 오히로(大廣)대들은 함(咸) 「그렇게(그처럼)」이라고 좋은 물에 들어간 바, 모두, 빠져, 단지 소광대만이 면했다.
여기서 충蕭왕은 다음과 같이 말했다. 지금, 두사람의 소광대가 나가 나라에 있다. 전영보와 박(朴) 속이 빔중이 그것이다. 나를 재난그물에 두고, 晏그렇게(그처럼) 좌시하는 것은 소광대 바로 그것이다와. 그리고 『고려(高麗)사』는 「국어가면 위해서(때문에) 戱사람謂之광대(국어에서는 가면에서 戱를 되는 사람을 광대라고 말한다)」이라고 주기했다.
여기에 당시의 【관데】의 일면이 그려지고 있다. 이 짧은 기사는 다음과 같이 읽을 수 있을 것이다. 첫째로 【관데】에는 대소의 별이 있었다. 그것은 신장의 구별뿐만 아니라, 위인에 대해서도 진행된 것이라고 보여진다. 오히로(大廣)대는 일견, 우둔의 때문에 죽은 것 같지만, 우둔한것만으로는 【관데】는 쓰토무(務)まら 없었다. 그것에 대해서는 나중에 또 올린다.
제2로 전영보와 같은 사람이 국왕의 주변에 있었던 사실에 주목 해야 하다. 그는 놈에게서 몸을 일으켜 무관이 되어서 국왕의 총애를 받았다. 몇번인가의 부침을 되풀이하고, 최후는 「요시히토(良人) 160명을 賤으로 했다」 것이 노현하고, 그 때문에 본적에 되돌려졌다. 즉 또 놈의 신분에 들어갔다. 전영보에게 어떠한 능력이 있었던 것일지는 모르지만, 원래의 嬖宦과 연척관계가 있었던 것이 배경으로서 생각된다. 그리고 또 말이 교묘한 책략가이었던 것일 것이다. 낮은 계층으로부터 몸을 일으켜 변설의 재주로 국왕의 주변에까지 다다른 것이 정말로 【관데】의 경우·변설에 비유할 수 있었던 것일 것이다. 【관데】도 또 그러한 부침을 모면하지 않는 사람이었지만, 동시에 국왕의 주변에 【관데】가 있는 것은 일상적인 광경이었다라고 보여진다.
제삼으로 국왕을 둘러싸는 문화적인 환경에 주목해야 한다. 그것은 원래의 왕실의 환경과 그다지 차이가 없었다고 보여진다. 처음부터 할아버지 충렬왕이 원래의 정조의 공공주인을 비라고 해서 어머니 (아버지 충선왕의 비, 懿비)도 몽고인이며, 자신(충蕭왕)의 아내도 또 몽고인이었다. 고려(高麗)왕가는 실질적으로 전(元)제(황제)혹은 그 공공 주(왕녀)들의 의향을 그대로 받아들이는 것 이외에는 없었다. 정치는 말할 필요도 없고, 특히 종교, 문화적인 장치는 원래로부터는 다녀 오고 있었다. 충렬왕 9(1283)년 8월에는 「원래의 倡싹싹한 남자 여자 오는, 왕, 미미쓰이시(三石)를 주시다」라고 있어, 그 매우 뛰어남인들은 오토노(大殿)에 있어서 「100戱를 보였다」 (『고려(高麗)사』세상가). 충蕭왕이 국내의 정쟁에 위기를 느끼고, 원래의 재상에 대하여 【관데】의 이야기를 이야기시켰을 때, 국왕의 신변에는 참으로 【관데】라고 부를 가치가 있는 사람들이 있었을 것이다.
제4에, 『고려(高麗)사』의 주기에 있는 가면戱의 광대야말로는 【관데】의 참된 모습을 이야기하는 것이었다. 문제는 송석하이래, 상기의 원문을 「조선어로 가면戱를 하는 사람을 광대라고 한다」라고 푼 것이다. 이것에 대해서 아유카이(鮎貝) 송이之신(進)은 말하는, 예로부터, 조선어의 의미에서는 사투리, 방언등이라고 적은 것이어서, 「국어」를 그 의미로 채용한 예로 없고, 따라서 이것은 「몽고【노】국어」라고 해야 한다고 (『잡攷하나(花) 낭攷·흰정攷·노비攷』). 이 아유카이(鮎貝)설은 검증될 일 없고 오늘에 이르고 있지만, 『조선 왕조실록』의 용례를 보아도 수긍할 수 있다. 실록에서는 국어의 용례가 20하나의 예 보여지지만, 하나의 예를 제외하면 모두 중국의 고전 『국어』에 언급한 것이다. 그런데 유일하게, 별도의 용례가 정조 23(1799)년 5월 마사루(甲) 신(申)의 조에 있다. 그것은 청호 제6대 이누이(乾) 류(隆) 제(황제)의 사후, 그 공적을 찬양하는 문장을 헌상했을 때, 그 가운데에서 이누이(乾) 류(隆) 제(황제)는 「3국의 역사를 규명하기 위해 遼, 돈, 원래의 국어를 번역했다」라고 한다. 『고려(高麗)사』 (15세기 전반편술)을 편찬한 정인지(1396-1478)들은 왕조 초기의 신진의 유학자로, 중국의 용례를 알고 있었을 것이다. 그리고 그 전통은 조선 후기에 이르러도 지켜지고 있었다. 이렇게 해서 보면 【관데】는 역시 「원래의 국어」로 해야 한다.
제5에 원래로부터 온 【관데】들은 100戱뿐만 아니라, 가면戱를 가져왔다. 그리고, 그 때이래, 조선의 예능문화는 크게 변용해 간다. 그 과정은 본고에서는 다루는 여지가 없지만, 단지, 【관데】의 역사는 이방인이 농본의 나라에 도래했을 때가 전형적인 가는 길을 걸었다고 하는 것만은 말해 두고 싶다. 여기에 둘의 길이 있다. 하나는 조선 왕조의 초기, 중기에 걸쳐서 기록된 악랄한 도당으로서의 재인의 역사를 걷는 길이다. 하나는 역사의 표면에서는 사라졌지만, 가면戱, 괴뢰戱등을 대대 연기한 예능집단으로서, 그 역사를 생각하는 길이다. 그들은 전술의 정약용(丁若鏞)의 기술에도 있는 듯이, 19세기의 시작에 이르러도 민중의 지지를 받고 있었다. 그러나, 그것이 정면으로 역사에 기록될 일은 없었다.
이상을 근거로 하고, 여기에서 끝(앞), 나는 후자의 길에 의미를 찾아내려고 생각한다. 무엇보다도, 전자의 길은 부의 집적으로밖에 없다. 그것들은 사실 있었던 것이다고 한들, 그만큼의 것이 아닐까? 물론 스캔들, 반항적인 사건에는 반드시 상응한 원인이 있어, 그것을 통해서 아무리(어떻게) 지독한 억압과 부조리가 횡행한고 있었는지를 규탄할 수는 있다. 그러나, 그것보다도 후자의 세계를 선택하자. 우리들은 그것을 아직 조금 별견한 것 뿐이다. 서둘러야 할은, 그 흔적이 있는 동안에 하나의 역사를 다시 더듬어 가는 것이 아닐까?
이라고는 해도, 남겨진 자료는 적고, 대부분은 부정적 언설이다. 여기에 있어서, 나는, 가면戱의 【관데】에 되돌아오려고 생각한다. 그들은 일반의 배우의 전통 위에 서고 있었지만, 그것뿐이면 고대부터의 100戱, 잡戱의 담당자에게 지나지 않는다. 【관데】는 무엇 보다도 원래로부터 도래한 새로운 매우 뛰어남인이었다라고 생각된다. 그들은 쯔이나적인 축문의 가면戱에 신기축을 담았다. 조선에도 옛부터 가면은 있었던 것이 틀림 없다. 그것은 신라(新羅)의 헌강왕의 때에, 남산신의 춤을 표현한 서리髥춤(백발, 수염이 많은 얼굴의 신의 춤)이 해져, 그 후이어서 가면이 만들어진 것부터도 명확하다 (『3국유사』). 또 연말의 대儺에도 소박한 액막이의 가면戱가 있었을 것이다. 그러나, 이러한 가면의 춤은 축도와 축문을 주로 한 것으로 새롭게 초래된 【관데】의 가면戱와는 다르고 있었다고 보여진다. 그러면 새로운 가면戱와는 어떠한 것이었던 것일까?

미카와(三河) 회가면戱의 사람들

1촌의 여신閣씨.

2위령. 혼례에 계속되어서 초야의 공잠도 연기할 수 있다. 서(徐) 깊은속 히로시(昊) 『【소난쿳】가면戱』에서.

3흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
4소의 고환을 파는 흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).
5량 반과 학자의 사이에서 고환의 효력을 퍼뜨림하는 흰정. 촬영 돈 히데오(秀男).

6【죠렌이】. 양반의 종자로 기묘한 익살꾼. 촬영 돈 히데오(秀男).
7승면. 촬영 돈 히데오(秀男).

8 젊은 여자와 승. 동아시아에서는 유서 깊은 演戱. 민속의 안의 승은 좋아하신다.
9무당과 같은 노파가 제사의 장소에 도래한다.

10학자면상은 정귀신에게 통한다. 원래는 젊게 해서 죽은 남자의 귀신인가? 촬영 돈 히데오(秀男).
11량 반의 얼굴은 호호야 그렇게(그처럼)이라고 하고 있다. 촬영 돈 히데오(秀男).
경상북도(慶尙北道) 안도(安東)군 강회동굴의 가면戱는 고려(高麗) 중기(이두 현),혹은 후기인가 말기 (13-14세기, 서(徐) 깊은속 히로시(昊))에 형성되었다로 여겨지고 있다. 가면의 조형, 강회의 동족부락의 변천 전승과 가면제작에 휘감기는 전승등이 그 근거이지만, 나는, 게다가 다음과 같은 이유로 『고려(高麗)사』의 【관데】의 등장으로부터 전후 그다지 멀지 않은 시기에 형성되었다고 생각한다.
그것은 2점에 집약된다. 제1는, 이 가면戱의 종교적 기반에 여신의 위령이 있어, 이것은 당시의 동아시아에 있어서는 새로운 관념이었다라고 하는 것은 있다. 다시 말해, 전승에서는 15나이로 시집가고, 어린이도 없고 불행한 죽는 법을 한 여성을 마을의 여신이라고 해서 그 임시의 진혼에 최대의 근거를 두고 있는 것이다. 이러한 여신이 성隍신으로 여겨진 것은 결코 고대적인 제사가 아니다. 그것은 오히려, 산천에의 기도라고 하는 예년 되풀이되어 온 고대적인 제사 위에 부가된 새로운 공양이었다. 덧붙이자면 중국에서도 역시, 동족제사에 있어서 불행한 죽음, 특히 여성의 죽음의 장의가 중요한 것이 되고, 이후에는 그것을 주제로 한 희곡(남戱)이 발전했지만, 그 맹아는 송부터 바탕으로 이르기까지의 시대이었다 (다나카(田仲) 가즈나리(一成) 『중국 연극사』). 이러한 사령공양은 장戱혹은 儺戱에 유래하지만, 이것이 원래의 【관데】의 演戱의 뿌리⊙에는 있었다고 보여진다. 그것은 송값의 중국에 퍼진 도시문화 및 불교문화에 유래하는 것이다.
제2로, 이 가면戱는 마을의 여신의 위령이라고는 해도, 등장 인물이 대부분 유상무상의 종류다라고 하는 것은 있다. 이것은 역시 서리髥춤등의 차원과는 다른 것이다. 오늘, 전승이 착종한 부분도 있지만, 강회가면戱에는 소를 도살함의 흰정(다른 책에서는 사형 집행인도 등장), 【죠렌이】 (익살맞은 儺사람), 턱모자람면에서 한쪽 발 마비의 【이메】, 승과 【푸네】(기녀), 친척 없는 노노파, 바보 취급되는 양반등이 나타난다. 이 등장 인물은 서로 모두, 쇠사슬 하고 있게 오신다. 흰정은 조선 왕조 중기이후는 격리된 마을에서 주로 해서 소를 도살함, 수양버들기만들기에 한정되어, 양민(백성)과 성교할 일도 없고 얕봐져서 살아가지만, 강회가면戱의 흰정은 완전히 다른 모양인 이미지다. 당당하게 뛰어다녀 큰 자귀로 소를 일격에 쓰러뜨리고, 곧 바로 고환을 꺼낸다. 그리고 정력증강에 좋다고 해서 관중을 향해서 이것을 팔아 버리자로 하면, 어리석은 양반들이 경쟁해서 산다. 물론, 사람들은 대소하지만, 그것은 결코 조소가 아니다. 이것은 이후에 흰정으로 여겨진 사람들이 아직 사회적인 차별을 받기 이전의 모습이었다라고 생각된다. 그들은 고려(高麗)시대는 요(楊) 미즈(水) 척, 뒤이어서 물척이라든가 禾척이라고 불리고 있어서, 그 출신경위는 호(胡)종 (성종 22(1491)년4월 무용)이라고 보여지고 있었다. 그들을 이방인으로 하는 견해는 『고려(高麗)사』열전 조준(1346-1405)의 목덜미에 이미 개미, 「禾척, 재인은 경종에 것 얻지 않고 국민租를 좌식하고, 항산도 없고 항심도 없고 야마야(山谷)에게 상聚 기다려서 와(倭)도적을 사칭해」 て 있다고 말한다. 그리고 또 「달단과 禾척은 소를 도살함을 가져서 고(耕) 식(食)에 대신한다」라고 하고 있기 때문에, 고려(高麗)의 말기에 그들이 농본의 입장부터 보면 다른 존재로 여겨지고 있었던 것은 명확하다. 단지, 일방으로는 주군, 站에서는 「모두, 소를 宰 말야 손님을 饋 했다」라고 하는 것이어서, 禾척들 나막신의 끈 사람들의 사이에서 공공연하게 활동하고 있었던 것일 것이다.
그런데, 승이 기녀를 처음 보아서 무쓰미(睦)び 맞는 演戱는 송값의 인기 있는 연목의 하나이었다. 「? 화상」이 그것으로, 중국에 있어서의 요전 사에는 당(唐)이래의 바라문(brahmana)춤의 전통이 있어, 이후에는 「오토(大頭) 화상」라고 정월의 민속이 되었다. 승의 「파계」는 조선에서도 일본에서도 같이 인기 있다 演戱에서 민중의 지지를 받았다 (『새자루가쿠기』에 그것인 듯한 것이 있다). 이것을 불자의 파계에의 교훈,또 특권화한 사원에의 풍자로서도 좋지만, 조선의 巫의 「세상尊【굿】」의 안의 놀이에 있는 듯이, 원래는 산으로부터 온 고귀한 모기 미가 젊은 여자에게 신생을 하사하는 演戱라고 말해야 해서, 에도(江戶) 기에 교토(京都)에 드러난 가장의 「ちょろ건(腱)」등도 역시 동류일 것이다. 중국 저장성(浙江省)의 민속이라도 원소의 때에, 오토(大頭) 화상의 演戱를 하면, 액막이가 된다고 말해지고 있다 (? 婉너 『사오성 떨어져 국민』, 인문출판사, 2008년). 단순한 여흥이 아니었던 것은 확실하다.
다음에 친척이 없는 노파. 「양반의 집에서 아래근무의 생활」을 한 것을 몸세상타령으로 읊으므로, 거기에는 본래의 「천민」노비의 애감이 담아져 있다. 단지 다른 책에 의하면, 이 노파는 주인과 이별해서 전국을 표류하고 있는 여성에서,혹은 다른 가면戱를 참고로 하면, 걸어 무당과 같은 사람이었을 지도 모른다. 실제로, 고려(高麗)말기의 성을 엶에는 巫가 있어서 오늘 있는 것 같은 요란하게 떠벌리는 巫의를 하고 있었다 (이규보 「노巫편」). 또 조선 왕조 초기에는 공동체를 떠나서 비구니가 되거나, 권함 행위를 해서 걷는 사회당등의 여성이 다수 있었다. 물론, 그 생활은 불안정해서, 중에는 길 무너져서 죽는 노노파도 있었을 것이다. 과연 가면戱의 노노파는 허무하게 죽는 사람이 많다. 장의의 의를 초래하는 배역이라고 하면 좋을 것인가?
강회가면戱의 등장 인물은 이러한 상품들이었다. 이러한 잡다한 등장 인물을 하나의 테두리의 안에 넣는 것이 끝나서 가능한 것일까? 그것이 사실은 새로운 【관데】의 演戱의 안에서 해진 것이라고 말할 수 있다. 이것은 송값의 「회사」를 중심으로 형성된 사령제사의 모양과 관계된다. 다나카(田仲) 가즈나리(一成)는 송값 고(鄕)촌의 시장의 묘를 중심으로 「사회」가 형성되어, 거기에서 3종의 고혼제사가 보여졌다고 한다. 제1는 정월 춘절의 풍양예의에 부수되는 고혼제사, 제2는 묘의 신이 도롱이 생일에 하는 것, 제3는 임시가 대규모인 고혼제사에서 9幽? 이라든가 황? 절 음식(채식 요리)라고 불리는 것이다 (『중국 연극사』). 강회가면戱는 별신【굿】이라고 하는 10년에 1번 정도의 임시의 제사의 안에서 해지고 있어서, 정말로 9幽? 의사상을 뿌리⊙에 가지고 있었다.
9幽? 는도교의 절 음식(채식 요리)? 의 하나다. 북송의 뽑는 사람 미상의 「황? 9幽? 장해물이 없음 밤 절 음식(채식 요리)대로」에서는 고혼의 종류를 12 채용했다. 나라를 위해서 죽은 영웅, 문신, 손님상, 프랑스승, 도사, 공장(장색), 고역에 죽은 사람, 억울한 죄사망자, 반역자, 범죄자, 자살자, 횡사자다. 게다가 이 수는 남송에 이르면 24도 된다 (『중국 연극사』). 그건 그렇고, 같은 것은 불교라도 말하고 있었다. 『瑜말벗(시중)집 요화염입施식(食)의』의 말미에는 「10류 고혼문장」이 있어, 그 가운데에서는 「일절의 노비, 給使」로 해서 빈천에 목숨을 맡긴 고혼, 「일체 장님, 귀머거리,? 벙어리, 발跛, 손 쇠약해져」등,또, 과부의 몸으로 의지할 곳 없는 고혼등을 올릴 수 있었다 (핫토리(服部) 요시오(良男) 『『施아귀그림』을 해독한다』). 이 불교측의 구제의 시점은 수륙회로서 이미 남북조시대에 볼 수 있었다. 수륙회는 드디어 당(唐)말 고다이(五代)이후에는 융성 하고, 실로 근현대에 이르기까지 중국의 사원에서는 이것이 유지되어, 사원경제의 근원과 정말(과연)이었다. 물론 조선에도 수륙회는 전해지고, 민간의 巫속예의에까지 침투했다.
이러한 제도의 관념이 강회가면戱의 등장 인물들의 뿌리⊙에 있었다고 생각하는 것은 무리가 아니다. 조선 왕조의 초기에는, 산야에 있어서의 施식(食)이 문제시 되어, 그 금령이 자주 내놓았다. 세종은, 승헛됨과 남녀가 음악을 연주해 「100종施식(食)」이라고 말해서 사망자공양을 한 것을 들어서 격노했다 (세종 27 <1445>년7월 병술). 조선 아침의 이 施식(食)은 고려(高麗)시대에 수용한 수륙 절 음식(채식 요리) 〔수륙회〕을 계승한 것이지만, 원래는 송값의 고혼들판귀신에게 대한 제도의 의이었다. 왜 그렇게 해야 했던 것인가, 그것은 마을, 지역공동체에 있어서 의지할 곳 없는 사람의 죽음이 재액을 일으키면 간주되었기 때문이다. 유생의 합리 주의로부터 말하면, 객사한 사람을 위해서 낭비에 가득 찬 저주를 한 바에서, 천재나 기근은 막을 수 없고, 귀신에의 베풀기라고 해서 음식물을 물에 던져 넣는 것은 우매의 극한이었다. 그러나, 천재나 기근은 친척이 없는 죽음과 관계가 있다고 보아서 최후까지 이 施식(食)의 의를 계속해서 행한 것이, 송 전(元)시로(代)이후의 동아시아의 민중사상이었다. 이것은 제례로서는 도사나 巫覡에 담당되어,또 제사예능으로서는 儺사람, 【관데】에 의해 담당되어, 나누어도 여성의 세계에 침투했다. 그리고, 동시 값의 조선과 일본에 전해져 가면戱나 괴뢰戱로서 꽃핀 것이다. 일본의 노가쿠(能樂)가 「남녀의 뿌리를 감추는 것」도 없는 발칙한 법체의 예능자의 설교, 논즐거움과 같은 것의 집단적 광소,그리고 권함등 위에 드러나 온 것은 이미 말해지고 있다 (마쓰오카(松岡) 마음평 『능력∼중세부터의 울림∼』). 이것은 고려(高麗)시대의 말기의 예능공간이었다 (연유하러 모리타(盛田) 가토쿠(嘉德) 『중세 천민과 잡예능의 연구』에 의하면, 17세기 순진하게 여전히 「고려(高麗)인」이나 「당인」의 방하가 귀현의 저에 參철(후) 밑 예가 있다).
그러한 예능의 뿌리⊙에 있는 것은 고혼들판귀신의 제도이었다. 단지 여기에서, 더한층 주목받는 것은 그 제도의 의에 생명의 태생이라고 한다 演戱가 부가된 것이다. 중국에서도 수륙회의 의의 안에 아이를 주는 그림상이 보여지고, 제주도(濟州島)의 巫속예의라도 「수륙의 의」는 어린이를 하사하는 고토부키(壽) 이노리(禱)다. 또 전라도(全羅道)의 사령제도의 예의중에 해진 【다시레기】는 출산의 촌극을 포함하고 있지만, 이것은 「다시의 출생」이다로 여겨지고, 명칭 로 보아 생명의 연쇄를 의미하고 있었다. 송값의 도시에서? 화상이 좋아하셔, 그것이 주변에 전해지고,또 민속화해서 전승된 것도 이 맥락 위에 있다. 조선이나 일본에서는 가면戱의 안에서 출산을 연기하는 것이 있다.
이렇게 보는 것에 의해 조선의 【관데】들의 용모가 보다 깊게 나타내진다. 그들은 이방인이며,또 무엇 보다도 고혼들판귀신의 제도를 演戱 하는 새로운 예능자이었다. 그 본질은 사령에게 부근, 나메라(滑)稽 추잡한 演戱와는 완전히 다른 귀신의 용모도 있었다. 그리고 그 것으로 두려워할 수 있는 것은 있어도, 그들은 결코 업신여겨지는 것 같은 사람이 아니었다.

4조선 왕조의 천민들

원래로부터 온 【관데】의 演戱는 마을이나 지역공동체의 안녕과 생명의 연쇄를 회복하기 위한 것이었다. 그러나, 조선 왕조를 시작한 유생들은 이러한 관념은 도저히, 용인할 수 없었다. 조선 왕조의 초기 100년 정도는, 고려(高麗)왕조의 유물을 청산하는데도 힘을 다한 감도 있다. 특히 사상면에서는 불교와 그것에 영향을 미치는 「淫祀」의 종류는 가차없게 이것을 금했다. 또 이후의 천민의 생성에 연결되는 시책이 여러가지로 실시되어 간다. 태조 2(1402)년 12월에는 「공사賤입, 다쿠미(工)상, 巫覡, 倡매우 뛰어남, 기생, 승니의 자손으로 관직을 부당하게 얻은 사람에게는 일체 전지를 주지 않는 것」으로 했다. 반대로 말하면, 이 시대까지, 그들의 자손은 관직에게 붙는 사람도 있었다라고 하는 것은 있다. 전영보와 같은 사람은 전에 없이는 없었던 것일 것이다.
또 태종의 시대에는 절과 신사가 가죽(혁)罷 되어, 태생이 좋지 않은 승은 환속,혹은 지방에 추방시켜졌다. 미노리(農)는 천하의 큰 근본이며, 재인, 禾척의 종류의 비농업국민의 정착, 동화는 불가피했다. 이동하는 사람들에게 대한 압제는 철저하고 있어서, 재인, 禾척은 「간음과 도둑질을 하고, 살인도 한다」 (세종 4 <1422>년11월 정축)이라고 하는 평가는 오래도록 이어받아지고 있어서 사례는 매거에 틈이 없다 (성종 2 <1471>년 2월 신유, 안 소산(宗三)6 <1541>년 5월 자신해등). 사실로서 그러한 것도 있었을 것이지만, 예측도 적지 않다. 일방으로는, 재인, 禾척을 흰 딱 하고 명명해 농민과 혼인시켜 (세종 5 <1423>년8월 을유), 잡 처시켰다 (세종 9 <1427>년11월 신해). 혹은 호적에 싣고, 평민이나 공사賤사람과 결혼시킨다 (세종 30 <1448>년4월 갑자)이라고 한 동화책을 추진하기도 했다.
그러나, 「재인, 흰정」은 원래 히로시(紘) 노래, 宰죽이기에 익숙해져 있어서 지금도 변경하자로 하지 않는다로 여겨졌다 (예종 일년 (1469)6월 신사). 여기에서는 재인과 흰정이 병렬되고 있다. 요즈음이후가 되면, 재인은 예능자, 흰정은 다만 屠畜과 수양버들기 조형라고 하는 것처럼 구별되게 된다. 이라고는 해도, 원래 「흰정」이라고 명명되었을 때, 거기에는 재인도 포함되어 있었던 것이어서, 양자가 완전히 별인이 되었다고도 단언할 수 없다. 예를 들면, 교토성의 성 히토시(均)관의 주변에 있어서 유교의 제사용에 쇠고기를 준비했니? 사람들은 역시 交婚을 기피되는 사람이었지만, 한쪽에서 산대극(【산데노리】)이라고 불리는 가면戱를 하고, 교토성뿐만 아니라, 근방의 요(楊) 주등에도 외출했다 (아키바(秋葉) 류(隆) 「산 대戱」). 그들은 屠畜도 예능도 담당한 것이어서, 그 본연의 자세는 오히려 고려(高麗)시대의 【관데】,또 조선 아침 초기의 흰정의 그것을 자주(잘) 이어받고 있었다고 생각된다.  
재인, 흰정의 이동은 16세기 거의 이후에는 큰 문제가 안되어진 것일 것이다. 왕조실록의 기록은 적다. 특히 흰정은 屠畜을 다만 할 것인가,혹은 군졸로서 징집되게 되었다 (예전에 재인, 禾척은 제주(濟州)인과 함께 군졸에게 편입되었다. 『고려(高麗)사』세상가 공민왕 5(1356)년). 여기에서 주목받는 것은 조선 아침 후반이 되면, 「대개의 육지국민은 바다남편을 시る것 대부분 소를 도살함 짊어지기와 같다」이며, 이것 때문에 일 회해 남편으로서 등록되면 평민과 상 저항할 수 있지 않고, 자손은 모두, 신분을 숨기자로 한 것이다 (정조 24(1800)년4월 무술). 이 전사는 제주도(濟州島) 출신자에게 대한 시점으로서 15세기에 이미 보여졌다. 다시 말해 「제주(濟州)의 콩 볏겨저 있음也」라고 하는 사람들이 경상남도(慶尙南道)의 해안에서 배주거를 하면서 물고기를 잡아 미역을 채취하고 있지만, 그들은 바닷가의 약탈자가 될 수 있는 사람이므로 서서히 손 명명하게 말하는 취지의 훈령이 내놓고 있다 (성종 8(1477)년5월 자신해).
이것과는 달리 제주(濟州)의 바다국민은 「전복작 말라」라든가 「전복작인」이라고도 불려, 역시 왜구에게 종류 하는 사람이라고 보여지고 있어서, 배반시키지 않는 것 같이 말하는 말이 왕에게서 내놓고 있다 (성종 16(1485)년, 동(同)20(1489)년). 그들은 귀중한 전복을 채집해서 진상하는 사람이므로 일방으로는 유용했다. 또 그들에게는 「머리무악」이라든가 「머리 볏겨저 있음」이라고 하는 별칭도 있었다. 그리고 와(倭)도적에게 필적하는 배의 쓰는 사람에서 활용하면 유익하다로 여겨졌다 (성종 23(1492)년). 머리무악은 한라산(漢拏山)의 별칭이지만, 머리 볏겨저 있음은혹은 까까머리에 유래하는 것일지도 모른다. 중국 송값에는, 승, 비구니, 노옹, 소아, 유우(優) 레이(伶), 모서리(뿔)⊙(스모), 泗고기잡이 한(어부), 타여우인 (사냥꾼), 볏겨저 있음종기(부스럼) (해들 거미의 뒤가 빛난 머리), ⊙볏겨저 있음 (완전히 빛난 머리)은 「10님의 프랑스」로 여겨졌다 (하마(浜) 이치에(一衛) 『일본 예능의 원류散즐거움생각』). 다시 말해 까까머리인들로, 이 대부분이 드디어 제구실을 할 양민(백성)의 부류로부터 구별, 차별되어 갔다. 그리고, 양민(백성)과 구별된 사람들의 혼인은 【관데】와 巫당(무당), 흰 딱 하고 사회당등 「천민」끼리의 물건이 되어 간다.
그런데, 승, 승니가 민간에서 기도나 제례를 하는 것은 말할 필요도 없게 압제의 대상이었다. 그러나, 예를 들면 수륙 절 음식(채식 요리)는 조선 아침 중간에 여전히, 해지고 있어서, 「수도중의 남녀가 撤시 해 奔물결」밑(선조 39(1606)년6월 자신해). 관헌이 이러한 행위를 처벌하는 것은 당연해서, 그 거듭하기가 결국, 민간의 종교자와 그 찬동자를 사회적으로 깎아내려 간다.
조선 아침의 초기에는, 「유녀」나 「꽃딸」이 되는 사람도 이미 많아, 이외에도 레이(禮) 소(曹)의 상신에 의하면, 승의 무리에 끌어 들여져 비구니가 된 여자들이 있었다. 또 상인들이 양가의 딸들을 속여서 淫여자로 하는 것, 무뢰한에 데리고 가진 여자들이 몸을 파는 것도 지적되었다 (성종 3(1472)년7월 을미). 이러한 현상은 반드시 폭력이나 돈것만으로 강요당한 것이 아니었을 것이다. 그것은 상응하게 여자의 측이 주체적인 행위이었다고 보지 않으면 안된다. 그러나, 이러한 사람들은 「소중화」에 있어서는 안되므로 붙잡을 수 있었다. 그것은 엄격한 것으로, 위반자의 장래는 노비 즉 천민이 되는 것이었다.
같은 것은 「사장」이라고 그것을 따른 여자들에 대해서도 말할 수 있다. 사장과는 회사곳간의 대표다. 회사곳간은 아카네(朱子)가 시작한 회사곳간법에 배워서 도입된 민중구제용의 창고다. 여기에 비축된 곡물을 가을에 저금리이어서 대출했지만, 사장은 이 제도를 사물화해 간다. 사장은 승인 것도 있었다. 또, 거사를 자칭할 것도 있었다. 조정에 있어서, 그들은 남녀의 무리를 없음, 생업을 버려서 차이역을 달아나, 錚과 북을 울려서 어디에나 싸다니는 것등의 점에서 도저히 용인할 수 없었다 (예종원 (1469)년, 6월 신사). 이 일단은 당초는 교토성내(城內)에서 「회사」를 결성하고, 거기를 염불소로서 집단생활을 했다. 그들은 불도에 귀의할뿐만 아니라 아침에는 시리(이익)을 탐내 밤은 아미타불을 칭했다. 게다가, 이러한 것을 번화가의 부녀자가 동경하는 상태이었다 (성종 2(1471)년6월 자신유). 그러나, 거사와 사회당은 왕조후기에는, 가무와 매음으로 알려지는 것 뿐의 보잘 것 없는 방랑 연예인집단의 하나가 되어 간다.
재인, 흰정, 바다국민, 승, 승니, 사장, 거사, 사회당들이 엄격하게 규제되어 가는 가운데에서, 巫覡도 또 동일하게 규제되어 비천시 되어 간다. 그 조선 왕조에 있어서의 기술의 분류, 정리는 이능화의 「조선巫속생각」 (국문 「조선의 巫속」)에 자세하다. 상세한 것은 그쪽에 양보하지만, 다음일은 적어 두고 싶다. 다시 말해 巫覡의 제례, 도성에의 거주에 대하여, 관헌은 집요하게 몇 번도 탄압을 가했지만, 고종(1863―1907)의 때에도 여전히 궁중에는 나라巫의 출입이 보여진 것이어서, 결국, 금령巫의 정책은 성공하지 않았다. 그리고 그 근본의 원인은 뿌리⊙에 주자학에서는 대체하는 방법이 없는 민중 (특히 여성)의 영혼제도 즉 구제가 있었기 때문이다. 실제로, 왕조 초기의 巫는 의원이며 동서활인 원(빈민구제 시설)로 의료행위도 했다. 이론서도 조직도 없고, 문자도 모르는 巫覡에 어느 정도의 논리가 있는 것이다인가라는 지식인의 시점에서는 巫속을 정면에서 눈여겨 볼 수는 없었다. 이러한 것이 왜 500년이나의 사이 계속된 것인가?
그것에의 회답은 왕조의 지식인에게서는 내놓지 않았다. 그리고, 그것은 조선 왕조의 붕괴후, 1927년이 되어서 처음으로 이능화에 의해 종교학에 가치가 있는 시점에서 체계적으로 진술할 수 있었다. 그러나, 그것조차 지나치게 빨랐던 것인가, 반응은 없었다. 이능화에게도 물론 부족은 있지만, 그 일련의 실적이, 『조선 불교통사』 「조선巫속생각」, 『조선 여자속생각』, 『조선 해어 꽃사』 (기생의 문화사)이라고 한 경과를 걷고 있는 것을 정확하게 비평하는 사람이 있으면, 적어도 거기에 조선의 여성생활사가 말해져 있었던 것을 알아차렸을 것이다. 그것은 한쪽에서 조선의 「천민」사와 깊게 관계되어 있었던 것이다. 그러나, 그러한 기축은 지금조차 명확히는 되지 않고 있다. 이 것은 조선의 근대의 배움지식, 그렇다면 중국과 일본의 속성 지식으로서 시작할 수 있었던 근대의 배움지식의 계보가 안고 있었던 가장 큰 한계점이었다 (야마무로(山室) 신이치(信一) 『사상과제로서의 아시아』, 그 근대 아시아의 배움지식에 대한 부감, 용이 주도한 검증 작업을 참조).

5免賤과 근대

지식인의 근대, 그들의 인식이 어때라, 조선 왕조의 「천민」들에게도 근대는 다가오고, 드디어 통과해 갔다. 이 때 그들은 어떤 생활을 맞이한 것인가? 아마에 새지 않고, 대부분은 모른다. 【관데】에 대해서 말하면, 17, 8세기이후, 판소리가 일어나면, 이 가수의 안에서 예술가기질의 노래손님도 나타난다. 그것은 유일하게 【관데】가 신분의 상승을 실현시킬 수 있는 길이며, 그 때문에 가창법도 추잡함을 죽이기ぎ애조(슬픈 가락)을 깊이 표현하는 방향에 폭을 넓혔다. 이것은 일본의 능력이 걸은 길을 일면에서는 닮아 있었다. 그러나, 그러한 노래손님은 소수이며, 대부분의 【관데】는 민간의 방랑 연예인으로서 세상을 건넜다. 특히 가면戱나 괴뢰戱의 【관데】에 대하여는 사회적인 평가가 낮게, 송석하등도 「광대자신의 자각이 필요」라고 좋은, 「이론가나 음악가와의 제휴」가 없으면 장래는 없다고 보고 있었다 (「전승 음악과 광대」).
그것은 매우 허황된 소원한 비평이지만, 근대의 서양연극이나 음악의 충격을 받은 당시의 지식인으로서는 어쩔 수 없는 곳이 있었을 것이다. 단지, 왕조의 후반기, 양반층의 도덕성의 결여, 무능인척 하기에 대하여, 가면戱의 안에서, 어리석은 양반이 하인에 의해 완부 울기까지 우롱되는 장면은, 역시, 근대에 접근해서 발전을 이룩한 것이라고 해야 해서, 거기에는 시대의식이 반영되고 있었다고 말할 수 있자. 원래, 동료가 주인을 꼼짝 못하게 하는 모티프는 이방인【관데】의 演戱의 안에는 있었다. 그것은 중국에서 하면, 당(唐)값의 參군戱 [멍한 상태(參군)과 돌입해 (아오이(蒼)⊙)의 대화에 의한 演戱]이래가 낡은 전통이며, 고려(高麗)의 매우 뛰어남인,그리고 가면戱나 괴뢰戱의 【관데】들에게 계승되어져 온 것이다 (조선 아침의 연산군 시대의 매우 뛰어남인은 왕앞 어울려서 풍자의 演戱를 하고, 처벌되었다. 그것은 이 왕 앞에서는 결사적이었다). 그리고 또, 일본의 자루가쿠의 기예, 교토(京都)에 나타난 자연거사들의 선승에 볼 수 있었던 분방함, 광언의 웃음등에도 같은 풍자의 정신이 보아서 해석될 것이다.
그러나, 그렇기는 해도, 오늘에 전승되고 있는 가면戱의 양반 풍자의 대사는, 그 날카로움에 있어서 參군戱나 「광언」의 수준을 훨씬 넘고 있었다. 예를 들면 하인【마루토기】는 주인을 향해서 말대꾸를 한다. 게다가 그 때, 양반의 피에 양반이외의 피가 혼합되어 있다고 욕을 퍼붓고,또 「대궐안 깊은 곳님 (어머니)」을 집어들어서는 성적인 욕설을 담은 것을 말한다. 게다가 조금 듣는것만으로는 의미를 모른다. 거기에서,또 수사를 바꾸어서 같은 것을 말한다. 이렇게 해서 하인의 말은 보다강한 우롱이 되고, 대부분 저항의 말이 되어 간다.
그렇다고는 해도, 왕조도 소멸하고, 식민지에 배출된 【관데】들은 모두가 옛 시 값의 유물로서 살아가는 것 이외에는 없었다. 그 님은 영화 『서쪽편제 (풍의 언덕을 넘어)』에 찍어내졌다. 돈명坤 분하는 【도사】주변의 가수【유본】이 연석에서 고집을 부린다. 그 때문에, 손님의 남자에게서 「재인(강변자)의 버릇 해」라고 욕을 퍼부어진다. 그러자, 【유본】은 「이 시대에 아직 양반이다든가 재인이다든가 말하는 것인가」라고 해 되돌린다. 그것은 근대의 【관데】들의 기껏의 대변이었을 것이다. 그러나, 판소리를 가져서 도는 【관데】의 시대는 사라져버렸다.
그런데, 천민중, 최하층으로 여겨진 흰정의 근대는 어땠던 것인가? 조선의 근대사상 잘 알려져진 1894년의 갑오갱 장(張)(마사루(甲) 오개혁)의 안에서, 군국기 쓰토무(務) 장소는 12개조의 제의를 했지만, 거기에 「역인, 倡매우 뛰어남, 가죽(껍질) 다쿠미(工), 및 免賤을 허용하는 것」이 있어, 이것을 국왕은 승인했다. 이 중의 「가죽(껍질) 다쿠미(工)」는 가죽(껍질)만들기를 짊어진 사람들로 많은 흰 딱 하고는 직역이 다르지만, 여기에서는 흰정도 포함된다고 보여진다. 그들은, 이것에 의해 강제된 일로부터는 풀어지게 되었다. 그러나, 그 뒤도 흰정에 관한 상황은 변함없었다. 이마무라(今村) 팔찌가 재빨리 흰정을 논하고, 이어서 이마니시 류(今西龍), 기다(喜田) 데이(貞) 요시(吉), 이(李) 사토루(覺) 종, 이와사키(岩崎) 쓰기(繼)생, 아유카이(鮎貝) 송이之신(進)등이 일본어로 논구했다.
이들을 통해서 안 것은, 왕조의 말기의 흰정은 호적이 없으므로 족보도 없었다. 이름에 인의등의 단어는 이용할 수 있지 않고, 일상생활에서는, 주의복(외투), (입기)쓰기물, 상복, 여성의 비녀의 입어 볼 일이 생기지 않고, 혼례 때의 탈것, 장례의 상가마도 금지되어, 양민(백성)에의 말づ인가는 어린이에 대하여도 겸손했다. 그리고, 갑오개혁이후, 호적을 주어졌다고는 좋은 조, 거기에는 「屠한」의 글자가 기록되어 사회적인 차별은 여전해 있었다.
단지, 흰정들은 왕조시대에도 「쇼(承) 도(堂) 미야코(都)가」라고 하는 부조 기관을 가지고 있고, 각지에 지부가 있었다. 이러한 조직이 있었기 때문인지, 일본에서 수평사의 창립이 있었던 다음 1923년5월, 조선에서도 경상남도(慶尙南道) 진주에 있어서 형평사가 조직되어, 평등에의 선언이 내놓으면, 순간적으로 전국에 펼쳐져 사원공칭 40만명의 일대사회 운동이 되었다. 그것은 주위에서의 심한 반발을 일으켰지만, 1930년경까지는 활발하게 전개되었다. 그러나, 드디어 노선문제로부터 갈등이 생기고, 퇴조를 향하고, 1935년, 명칭을 대동사와 변경한 뒤, 경제 활동을 주로 한 기관이 되고, 그것도 1940년경을 경계에 종언 했다. 해방후는 조선 전쟁의 대혼란의 안, 흰정의 특수부락은 서리가 내림하고, 사회적으로 차별되는 적이 없어졌다로 여겨지지만, 흰정을 주제로 해서 창작 활동을 계속한 작가 정(鄭)동 기둥은 현재도 「차별 의식은 남아있다」라고 해서 특히 지식인의 사이에 그것이 강하다고 한다. 그리고, 진주에 형평운동의 기념관을 만들고, 흰정의 생활과 역사에 관한 자료를 전시하는 것을 제안했지만, 형평운동의 연구자로서 알려지는 지식인이 그것에 이의를 외쳤다고 하는 것을 말하고 있다 (『신의 지팡이』). 그것만(그만큼) 흰정의 문제는 생생하다고 하는 것일 것이다. 오늘 여전히, 진주시(晋州市)에 공설의 기념관은 없다.

6 생각하는 실마리(연고)로서의 「천민」

한반도(朝鮮半島)에서는 해방후도 흰 데이(丁)촌, 재인마을, 재가승(함(咸) 가가미(鏡) 길의 산간부에 있었던 까까머리의 사람들로 차별되었다)의 마을등이 남아있었지만, 현대에는 남북 어느 것의 사회에도 존재하지 않는다. 단, 흰정이나 巫당의 가계에의 차별적 시점이 없어진 것은 아니다. 차별 의식이 불식된 것인가 아닌가는 세대, 지역에 의해도 다를 것이다. 자신의 성씨가 위조양반 가문이라고 공표한 역사가가 있다고는 들었지만, 흰정, 巫당의 가계라고 하는 것을 자칭하는 것은 대충 생각하기 어렵다. 가능하다면 그러한 것은 밝히고 싶지 않다라고 하는 것이 한국 사회의 공약수일 것이다. 거기까지 추궁하면 차별은 사라지지 않고 있다라고 하게 된다. 또, 가까운 과거에서는 전라도(全羅道) 출신자가 정치경제의 중추에서 부당하게 멀리할 수 있다라고 하는 새로운 수법의 차별이 있고,혹은 중국의 동북지역, 연변등 조정하는 객지벌이의 조선 족동포나 동남아시아 출신의 노동자에게 대한 차별이 일부에는 있다. 흰정이나 巫당은 비유하고, 경제적으로 촉촉해져 있어도 무서운 사람으로 여겨지고, 아마 그러므로일 것이다, 접촉하고 싶지 않다고 한 선입관은 강하게 남아있었다. 이렇게 보면, 근대 일본의 사회가 屠畜, 피혁업,혹은 선(Saint) 모기나 집배의 사람들,또 「해고 단(彈) 에이(衛) 가도(門)」 (사형 집행인)등에 대하여 두려움 차별한 상황과 그다지 대신이 없게 된다.
단, 역사의 안의 차별을 공연이게 논한다고 하는 점에서는 명백하게 다르다. 예를 들면 2002년2월6일, 한국의 SBS방송은 음력정월의 특별프로그램에 드라마 「흰정의 딸」을 방송했다. 한국에서는 한 때 텔레비전 보도가 너무나 비판 정신을 잃어버렸기 때문, 「바보상자」라고까지 말하여졌지만, 92년의 민간인정부 이후는 생각하는 소재를 제공하는 매체라고 하는 일면을 되찾고 있다 (군사정권의 이면, 그 최후의 비극 「광주(光州)」를 찍어낸 드라마 「모래시계」 <1995년, SBS방영>을 모르는 한국인은 없다). 그건 그렇고 「흰정의 딸」이지만, 이것은 20세기 첫어울린 실화에 취재한 것으로, 상당히 무거운 드라마다. 흰정의 아버지를 가지는 【온뇬】이라고 하는 이름의 여자 아이가 선교사의 의사를 만나고, 이화학 당으로 근대교육을 받는다. 아버지는 가슴에 흰정의 표시인 천 조각을 하지 않는 것으로 역인에게서 구타되어, 급한 환자의 왕진도 거절당한다. 어머니는 광장의 군중에 의해 「흰정閣씨승마 경쟁」이라고 하는 잔혹한 놀이의 말로 된다. 어머니는 능욕을 견디어낼 수 없고 자살한다. 어머니의 장례식으로 상가마를 채용하자로 하면, 마을사람에 의해 상가마는 때려 부수어진다. 이러한 것은 실제로 있었을 것이다. 그리고, 이화학 당의 6년간의 면학이 끝나고, 졸업식의 석상, 대표에게 뽑힌 【온뇬】은 강당에 參자리 한 많은 사람들 앞에서, 자신이 흰정의 딸인 것을 고백했다.
드라마는 첫머리에 일본군에 의한 조선인의 체격, 체질검사에 흰정이 강제 동원된 역사적 사실을 두고, 도중, 왕조말기 이래의 흰정가족의 수난을 그리고, 드디어 【온뇬】의 용기 있는 고백과 청중에게서의 축복의 박수로 끝난다. 대단원풍의 끝나는 방법이 약간 마음에 걸렸지만, 그것은, 차별은 필경, 구축물에 지나지 않는 것으로 맥이빠지게 붕괴될 수 있는 것이라고 하는 메시지일지도 모른다. 어떻든간에 근대의 흰정을 생각시키는 소재에는 충분히 되고 있다. 이 드라마를 현재의 한국 사회가 어떻게 시청한 것일지는 모른다. 단지 적어도 한국 사회가 몇십년 전까지 존재한 가혹한 사회차별의 역사를 정면에서 생각하자로 한 것, 그러한 생각하는 풍토가 있는 것은 주목해도 좋다.
물론, 오늘 한국에도, 상품 나머지의 일상, 「자유」를 힘 겨워하는 젊은 세대는 적지 않게 있어서 역사떠나기도 또 보여지는 곳이다.
그러나 일방으로는, 일본의 통치, 조선 동란, 군사정권아래의 민주화 투쟁등에 의한 아픔을 피부로 아는 사람들이 건재해서, 그것을 구전하는 사회풍토가 존재한다. 향락에도 대담하지만, 아픔에도 또 민감한 사회다. 물론, 그것이 하는 밧줄ち 모두의 차별의 해소에 직결한다고는 말할 수 없을 것이다.
그러나, 나부껴서 오늘 일본에서 피차별 국민의 근대를 주제로 한 드라마를 정월 프로그램에 방영하는 것등이 가능할까? 우선 그러한 주제는 기획에조차 오르지 않을 것이다. 그렇게 해서 일방으로는, 현실의 다양한 아픔이 드디어 복합적으로 재생산되고 있다. 역사의 아픔에 둔감한 사회가 현실의 아픔에 민감할 리는 없기 때문에 당연하다. 그리고 염려하는, 「우리들의 텔레비전 미디어등은 「부적절한 용어」를 제거하는 것에는 매우(대단히) 열심이지만, 역사의 아픔을 뿌리부터 고치게 하기 위한 바른 길을 따라 가는 것에는 완전히 배짱이 없어지고, 그것이야말로 나날(날마다) 「바보상자」에 다가오고 있는 것이 아닐까? 그렇게 해서 일본이라고 하는 공동체는 정말로 그 무비판, 신경이 무딤에 의한 순간의 안태를 탐내고 있는  것 뿐만 아니는 것인가라고.
천민으로 여겨진 사람들의 역사, 그것은 지금, 봉인을 풀어지지 않으면 안된다. 그리고 이후, 처음으로 우리들은 동아시아의 동시 값성을 재인식 할 수 있을 것이다. 그들을 포함시킨 동시 값적인 공동체는 무심결에 5, 600년 앞에는 확실히 아직 보여진 것이다. 그리고, 그러한 본연의 자세, 생활의 양상을 구체적으로 알면, 사실은 차별 의식의 대부분은 뜻밖에 가까운 과거에 이식할 수 있었던 빌린 물건에 지나치지 않는다라고 하는 것을 알 것이다.
한반도(朝鮮半島)의 「천민」은 동아시아의 기층문화의 여러 가지 모습에 육박하는 관문열쇠의 하나다. 이것은 모르게 마치는 문제가 아니다.  (2008년10월5일 보유)


참고 문헌(글 중에 인용한 것

巫覡, 【관데】의 민속종교적 배경에 대해서 노무라(野村) 신이치(伸一) 「조선문화사에 있어서의 사망자영령의 공양」 『히요시(日吉) 정기 간행물 언어·문화·커뮤니케이션』No. 28, 게이오기주쿠대학(慶應義塾大學) 히요시(日吉) 정기 간행물 간행 위원회, 2002년

기생, 노비, 흰정, 사승, 巫당등에 대해서 안우식 편이유(번역) 『아리랑 고개의 나그네들』, 평범사, 1982년 안우식 편이유(번역) 『속·아리랑 고개의 나그네들』, 평범사, 1988년 숲鍾나라 『서울 성하에 한강(漢江)은 흐른다』, 평범사, 1987도시가와(年川)촌 미나토(湊) 『기생』, 작품사, 2001년

요(楊) 미즈(水) 척·禾척·물척, 재인, 흰정에 대해서

이마무라(今村) 팔찌 「조선의 특수부락」 『조선 풍속집』, 사도관, 1914년 이마니시 류(今西龍) 「조선 흰정생각」 『예문(예술과 문예)』 9권 4호, 1918년 기다(喜田) 데이(貞) 요시(吉) 「조선의 흰 딱 하고 우리괴뢰아이」 『사 숲』 9권 9호, 1918년 이(李) 사토루(覺) 종 「조선의 특수부락」 『조선』 104호, 1923년 이와사키(岩崎) 쓰기(繼)생 「조선의 흰정계급:특수부락-형태」 『조선』 211호, 1932년 아유카이(鮎貝) 송이之신(進) 「흰정, 附물척, 禾척, 요(楊) 미즈(水) 척」 『잡攷』 5輯, 1932년 (『잡攷하나(花) 낭攷·흰정攷·노비攷』국서간행회, 1973년 복각)돈정아름다움 「19세기말·20세기 초기에 있어서의 「흰 데이(丁)」」이이누마(飯沼) 지로(二郎), 강재언 편 『근대 조선의 사회와 사상』, 미래사, 1981년 스기야마(杉山) 지로(二郎) 『유민의 계보』, 오즈치(靑土)사, 1988년

형평운동에 대해서

돈중燮 『형평운동 연구』, 한국 사회과학연구소, 肯신(愼) 유카리(紫), 1990년, 서울 돈긴대저, 『형평』번역 편집 위원회번역·편집 『조선의 피차별 민중』, 부락해방 연구소, 1988년

巫覡의 역사에 대해서

노무라(野村) 신이치(伸一) 「이능화 「조선의 巫속」주 (상)」 및 「이능화 「조선의 巫속」주(아래)」 『히요시(日吉) 정기 간행물 언어·문화·커뮤니케이션』No. 28, No. 29, 게이오기주쿠대학(慶應義塾大學) 히요시(日吉) 정기 간행물 간행 위원회, 2002년 (이것은 이능화 「조선의 巫속」잡지 『조선』, 조선 총독부, 1928―29년에 7회 게재되었지만 복각에서, 거기에 이유(번역)주를 첨부한 것)

예능사 및 가면戱

노무라(野村) 신이치(伸一) 『가면戱와 방랑 연예인』, 개미한 서방(책방), 1985년 이두 현 『조선 예능사』, 도쿄대학(東京大學) 출판회, 1990년 다스키(田耕) 아사히(旭) 『한국 가면극 그 역사와 원리』, 열이야기 당, 1998년, 서울(호세이대학(法政大學) 출판국에서 일역 2004연간) 돌아간다

No comments:

Post a Comment