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Sunday, July 8, 2012

the folding screen figure of plowing weaving customs


耕織風俗図屏風


女性の仕事・子供の遊び
農家の母屋の室内に3人の女性が糸車を回し、糸を紡いでいる。蚕棚の蚕盤のなかは桑の葉であろう。季節は春であろうか。女性たちは年齢が異なるようだが、糸車で糸を紡いでいる女性を中心に集まっている。機織や糸紡ぎなどは主に女性の仕事とされた。糸紡ぎは、それほど厳しい労働力を必要とはしないが、単調な動作を繰り返すことから、女性たちは、歌を歌ったり、楽しい会話をしながら退屈を紛らわせた。
糸車を回している女性はあげ髪をし、糸巻きの管を手にしているもう一人の女性は後馨をしている。朝鮮時代中期までは、既婚の女性はお下げ髪を後ろから編み、頭の上に乗せて固定する巻上げ髪にしたが、中期以降から髪を後ろに髷のようにまとめる髷髪(後馨)に変わっていった。巻上げ髪と髷髪が並存しているのは、その移行の過渡期の表現だろうか。巻上げ髪の女性は、半回装チョゴリに、その下に帯を締めていることから、庶民のなかでも身なりが整った女主人のように見受けられる。画面の中央には、犂や鋤が壁に立てかけられており、手広く農業をしている豊かな農家であることを示している。
屋敷は生垣に囲まれ、草葺き上屋の枝折戸からは水甕を頭上に載せて運搬する女性が入ろうとしている。井戸から汲んだ水を運んでいるのであろう。水は女性が素焼きの水甕で頭上運搬するのが一般的であった。屋敷内には庭木はなく、広い空間となっており、秋には庭仕事の場所となるのであろう。
その空間に少年たちが集まり、遊びをしている。地面に小石が並べられていることから、ゴヌ遊びをしていると思われる。ゴヌは庶民の遊びで、子供から大人まで楽しまれていたが、屋外でのゴヌは主に少年の遊びであった。ゴヌの盤を想定した図面を地面に描き、小石は駒として使われた。小石を動かすことで勝負を競う遊びで、将棋や囲碁の原初的なものとされて、地棋ともよばれた。4人の少年の前に小石が置かれており、この4人がゴヌ遊びをしているところに、右側からもう一人の少年が加わろうとしている。その少年はチョゴリの上に、さらに小衣と呼ばれる上衣を着て、パッチは脚絆でまとわれていることから、少年の中では年長のように見える。口に何かをくわえている子供は、遊び仲間に入れず、ゴヌ遊びを眺めている様子である。口にくわえているものが何かははっきりと読み取れないが、おそらく他の風俗画にもよく描かれる風車であろう。服装も男女の区別なく、小さい子供が日常的に着用するたればかま風のパッチに、木靴(ナマックシン)を履いていることからも、少年の中ではもっとも年少であることがわかる。(金)



1草屋根12垂木23明り障子34蚕棚(蠶架)45三角帽子56チョゴリ(ミンチョゴリ)67チマ78巻上げ髪89チョゴリ(半回装)9

10 腰帯

12 管巻13 重石14錘つむ台15 糸を紡ぐ
16片膝立て17管18髷髪(後馨)19簪20筵21柱22礎石

24犂先25練木26練先27熊手鍬・三本鍬28チョゴリ29パッチ
30両膝立て31お下げ髪32上衣(小 衣)
33 藁履10

12 13 14

17 18 19 20 21 22

24 25 26 27 28 29

31 32 33

34 たればかま風のパッチ34
(オングパッチ)35木履3536巾着3637脚絆3738皮履(バルマク)3839水甕3940頭上運搬
41枝折戸4142門柱4243草葺き上屋4344生垣44





洗濯物を干す

山あいの農家の家の内外で働く人々の姿が描かれている。草屋根の軒先には庇が付設され、その屋内の続き間が見えている。手前の部屋の上がり口には踏み石があり、部屋の中には男と2人の子供が座っている。男の前には筵編機がある。筵編機の前後に男の両手が描き分けられ、編んでいる最中であることがわかる。右側の2人の子供は、ともに書を開き、勉強をしている様子である。男が子供達に読み方を教えながら、筵を織っているのだろう。奥の部屋の左側には文箱が置かれ、その上に に包まれた書物

1 巻上げ髪
2洗濯物を干す3チョゴリ4チマ5物干紐6物干棹7腰帯8草屋根9垂木
10庇11持送り12角柱
ちつ
13 14 文箱15 冠(四方冠)

1 16 顎鬚 16

17 上衣(小 衣) 17
3

4 19 薦槌 19
5 20 筵を編む

6 21 藁束 21
7 22 筵 22
8 23 正座する

9 24 パッチ 24
10 25 書物 25
11 26 お下げ髪 26
12 27 片膝立て


洗濯物を干す
13 28 履物
14 29 踏石
15 30 瓢箪

28
29
30


いる。
女性が洗濯をする場が風俗画に描かれることは少なくないが、洗濯物を干す行為自体を描くことはとても少ない。この絵からは、洗濯物を日本のように物干し竿で干すのでなく、紐で干していることに気づく。また、儒教倫理に従い、男女間に厳しい区別を設けた朝鮮時代においても、男性の洗濯物と女性の洗濯物を分け隔てなく干していることも分かる。いずれの干し方も、現在との間に大きな変化は認められず、今につながる習俗であることが分かる。なお、朝鮮半島の農村部では現在でも、物干し竿は少なく、紐で干すことが一般的であり、洗濯物の重みで垂れ下がる洗濯紐を支える竿の名称も多様である。例えば、全羅南道ではカンデ、慶尚南道ではチャクトゥバリなどともいった。(中野)がのせられている。男は四方冠をかぶり、ソチャンイ(小 衣)という上衣を着ており、
農民としては身なりが良い。文の習得に勤しんでいる点は、科挙に合格することに重きを置いた社会背景を窺わせる。
屋外の林寄りに、女性と子供の姿が見える。2人の前には、洗濯物が見える。上衣、チマ、帯が洗濯紐にかけられ、その紐の端は自然木に結わえられている。洗濯紐は洗濯物の重みで垂れ下がるものだが、ここでは、竿で紐の
中程を支えている。女性の髪型は巻上げ髪であり、既婚者であることが分かる。チマの端を腰で止めてたくしあげており、足元が見える。向かい合う子供は女の子である。洗濯物を干す手伝いをしているのであろう。洗濯物を干す女性の日常の姿が描かれて頭上運搬と背負い運搬ものを運搬する2人の女性と1人の少年を描く。画面左側の2人の女性が頭上運搬している篭は、脚の付いた小さな飯台の上に載せているので、食べ物が入っていると思われる。篭はかなり大きく描かれており、多人数の食事を運搬しているようにみえる。食べ物の頭上運搬は飯台に載せて運ぶのが一般的であった。篭の縁は、異なる色が交互に配置されており、装飾的にみえるが、材料は竹もしくは樹皮なのか、それとも彩色を施しているものなのか不明である。
女性の服装は、白のミンチョゴリに、単色のチマを着ている。チョゴリはかなり短く、頭上に載せた飯台に手を伸ばしているため、短いチョゴリの下から胸が見えている。庶民の女性の中では、必ずしも腰帯で胸を被わない場合もあったようである。2人ともに活動しやすくチマの裾を腰の辺りまで巻き上げ、丈の長さを短くしている。チマは裾を左から右へと回すゴドルチマにしており、右から左へと回す妓女と区別し、良民であることが示されている。チマの下には下着のパッチがみえる。パッチも労働の際には紐で結んでいた。
右上の土橋を渡る少年は、背負梯子に壺を載せて運んでいる。手に持っている息杖は、先が二叉になっており、背負梯子を支えるためのものである。2人の女性と一行であれば、壺の中には、食事に伴う酒が入っているのであろう。背負梯子は脚が短い小型のようである。土橋は、松の木で橋脚を作り、橋桁の上にも松の枝を広げてその表面を土で覆いかけている。(金)

1 風呂敷(褓) 1
2篭 2
3飯台 3
4 手拭い頭巾 4

5チョゴリ(ミンチョゴリ)56たくし上げたチマ6(ゴドルチマ)7腰帯
7 8 下着のパッチ
8
9チマの裾を持つ910杖1011藁履1112巻上げ髪1213胸を露出する1314頭上運搬1415土橋1516覆い土1617若松の枝1718橋脚1819橋桁1920酒瓶2021背負梯子(チゲ)2122背負梯子の爪2223ざんばら髪2324肩衣2425股引2526裸足2627犬27


男の田起こし・女の種子播き
1草笠 1
2 チョゴリ 2
3 熊手鍬・三本鍬 3
4 パッチ 4
5脚絆 5
6藁履 6
7 髷( メンサントゥ) 7

8股引
9裸足10黄牛11鼻木12軛くびき13腹帯14引き綱15手綱16尻枷しりがせ17 練木

19 犂身
8 9 10 11 12 13 14 15 16 17

19

20 犂先 20
21 犂で耕す 21
22 冠(宕巾) 22
23 上衣(中致莫) 23
24 長煙管 24
25 皮履(バルマク) 25
26 手拭い頭巾 26

27 チョゴリ(ミンチョゴリ)27 28チマ28 29 下着のパッチ
2930種子をまく3031畠3132竪畝3233畦3334作場道3435土橋3536橋桁3637若松の枝3738橋脚38

春の水田耕起の様相を描いている。図の下部に水の流れが描かれ、その横の平坦地での作業であるので水田と考えてよいであろう。中央部では犂を牛に曳かせて田起こしをしている。犂は床がほとんどない短床犂である。牛の前では、2人の男性が熊手鍬
(三本鍬)で耕起作業をしている。これと犂による耕起作業との関係は絵からは明確に判断できないが、犂によって荒起こしをした土塊を細かく砕く作業をしていると見られる。ただし犂による耕起と鍬による作業の位置関係は不自然である。水田の上手には、帽子を被り、ゆったりした上衣を身につけ、長煙管で煙草をすう男性がいるが、これはこの土地を所有する地主であろうか。耕起作業の監督をしているものと思われる。
背景のように描かれる土地は傾斜があり、水田ではなく、畝がたてられた畠と判断される。ここでは2人の女性が左手で種子の入った器を抱え、右手で種子播きをしている。いずれも裸足である。
水田は男性、畠は女性という性的分業が存在したことを表現していると考えてよかろう。(福田)
Ⅰ●耕織風俗図屏風



鋤で耕す

Ⅰ●耕織風俗図屏風
12 裸足 12
13 上半身裸 13
14 三角帽子 14
15 煙管 15
16 パッチ 16
17 焚き火 17
18 ざんばら髪 18
19 たればかま 19
20 荷鞍 20
21 黄牛 21
22 胸懸 22
23 頭絡 23
24 鼻木 24

1 鋤(カレー)
2風呂 2
3鋤先 3
4留金 4
5鋤柄 5
6 引き綱 6
7 鋤で耕す

8 髷(メンサントゥ) 8
9顎鬚 9
10 チョゴリ 10
11 たくし上げたパッチ 11

男達が鋤(カレー)で耕作をしている様子を描いている。脇の木には若葉が芽吹き始めており、季節は春であろう。右奥に水の流れらしきものが描かれていることなどから、この耕地はいまだ水が引かれていない水田である可能性が高いが、畝らしきものが見えるため、畠である可能性も否定できない。
耕地には3人の男が裸足で入り、1人が長い柄を握って鋤を押し、2人がそれぞれ引き綱を持って、鋤を引いている。鋤先は土にめり込み、2人とも後ろ足に体重を乗せて引いている。鋤を引く男はパッチの裾や袖をあげ、鋤を押す男は半裸で腰を折って力を込めており、汗をかくほどの力仕事であることが分かる。
左上方にも3人の男と、鋤が見える。煙管で煙草を吸う男、片手をついて座っている男、そして、横
鋤で耕す
たわっている男も見え、3者の間にはたき火の煙らしきものがある。手前の男はパッチの裾をあげ、裸足だが、他の2人は、たとえば、煙草を持つ男が靴を履いているように、未だ働いた様子がない。耕地を耕す手伝いに来ている者達であろう。
後方には少年と牛が見える。牛の背にはたればかまが装着され、その下部は荷の重みで垂れ下がっている。この部分は開閉が可能であり、一般に蔬菜類、土、石、堆肥などの運搬に用いられたが、ここでは中に何が入っているのかは見えない。
鋤は、田畑の耕起や田の畦畔づくりに用いられた。朴趾源が編纂した農書『課農小抄』(1799)は、綱つきの鋤が、中国にはない独特なもので、土を起こす機能に優れているとし、その使用を推奨している。丁学游の『農家月令歌』(1816)3月の歌には鋤が読み込まれており、当時広く使用されていたことが窺える。セソンモクといい、3人が1組となって1つの鋤を引くことがよく知られているが、鋤を2つ連結させ、6人で利用していたことも禹夏永の『千一録』(1796~1804)に見える。二毛作や耕地の条件により、耕起作業は、人数を増やし、プマシ(日本のユイに相当)で行うこともあったが、1、2人で引き綱のない鋤を用い、小規模に済ませることもあった。(中野)

秋の稔りの庭仕事
1髷(メンサントゥ)12肩衣23巾着34たくし上げたパッチ45裸足56唐竿67籾78俵89筵910穀物入れ1011チョゴリ1112結び紐(ゴルム)1213パッチ1314脚絆1415箕15


17軸木1718柄1819裾紐1920藁にお2021三角帽子21
22箕で篩う23老婆2324チョゴリ(ミンチョゴリ)2425チマ2526竪杵2627竪臼2728竹箒28

えぶり
29

2930切妻3031草屋根3132明り窓3233垂木33
収穫後の庭仕事の様子を描いている。切妻型の母屋の前庭における脱穀作業の順序が一通り示されている。左側で先ず唐竿による脱穀(稲穂から籾を打ち落とす)、その右側では筵を敷いた上に摺臼を据えて脱穀(籾から籾殻を取り除く籾摺り)の様相、そしてその右側では箕を用いて米と籾殻をふるい分けている。さらに上部では、老女が竪杵を用いて木臼に向かって作業をしているが、これは玄米から糠を取り除く米つきを示すものと思われる。作業順に描いているが、これらの作業が同時に行われるわけ

Ⅰ●耕織風俗図屏風

ではない。また俵や藁におの位置には不自然なものがある。
ここに描かれた人物は、竪杵を使う老女以外は全て男性である。水田の耕起作業も収穫後の庭仕事も基本的に男性の仕事であったことが分かる。男性でただ一人作業に従事していない人物が中央部に描かれている。両手を後ろ手に組んで立って、作業の様子をながめているが、上着を着けておらず、冠り物も被っていないので、この家の主人とは考えにくい。(福田)

稲束を打ちつけ脱穀
こくえ
1稲束1

29黒衣29 2 ざんばら髪2
30背はい嚢のう30 3 チョゴリ3
31 腰を屈めて合掌する4 パッチ4


32草屋根325脚絆5
33寄棟33
6 稲束を打ち付けて脱穀する

34垂木34 7 上半身裸7

35庇358藁履8

36 開き戸36 9 脱穀台9
37取っ手3710籾10
38火箸3811髷(メンサントゥ)11
39火鉢3912巾着12
40縁側4013顎鬚13
41束4114笠14
42柱4215結び紐(ゴルム)15
43礎石4316股引16

44突き上げ戸4417裸足17
45突き上げ竿4518竹箒18
46火防壁4619俵19
47 草葺き上屋47
20 俵を締める

48門柱4821冠(四方冠)21

49門扉49
22 上衣(小 衣)22
50桟50 23 脱穀を監督する

51藁壁5124裾紐24

52生垣5225木履25

53醤油甕5326杖26
54 甕置き台54


55藁にお5528山形の頭巾28


庭に植えられた庭木も葉が色づき、建物の縁側終えて満杯になっている。俵詰めをする役目の2人には火鉢が出されている。秋も深まった農家の風景の男性が、俵の上にのりかかり一生懸命俵を締め付である。寄棟造りの草屋根の建物があり、その脇にけている。この庭仕事も全員が男性であり、女性のは門扉を付けた門、さらに屋根を備えた物置などが姿は見られない。稲穂を打ち付けて脱粒させる脱穀続き、全体として屋敷を囲い込んでいる。絵の手前法は、日本では見られないが、中国では今日でも盛には2棟の建物が描かれているが、その前に生垣がんに行われており、朝鮮半島でもその方法が採用さ結ってあり、別の屋敷であることを示している。庭れていたことが知られる。の中央部では脱穀用に置かれた大きな自然木の脱穀木の下に四方冠を被り、上衣を着、木履を履いて、台に稲束を打ち付けて、稲穂から籾をはずす脱穀作長い杖を持った男性が作業の様相を見ている。この業を4人の男性が行っている。籾はそのまま俵詰め家の主人であろう。その男性に向かって深々と頭をされたものと思われるが、絵では脱穀した籾を竹箒下げ、手を合わせている黒衣の男性がいる。家々をで掃き寄せている様相が描かれている。そして、そ訪れて、喜捨を求める托鉢僧である。(福田)の横には俵が置かれているが、この俵はすでに詰め
Ⅰ●耕織風俗図屏風



碓を搗く女

農家の庭にある搗き屋を描いている。左上には甕置き台が描かれていることから、搗き屋は屋敷内の裏側に設けられていたと思われる。徐浩修の『海東農書』(18世紀末)によると、中国や日本では一直線の1本の杵が一般的であったが、朝鮮では1本の踏み台の杵と2本(叉木)のものが併用されていた。この図には、杵の端に叉木が用いられ、2人が屋根裏から垂れている支え綱を握って、杵の端の踏み台
Ⅰ●耕織風俗図屏風
に体重を乗せて搗く、いわゆるY字型の踏臼が描かれている。『舂雑記』によると、碓は横木を渡してそれにつかまりながら搗くのが一般的であるが、天井から垂らした綱につかまって体の均衡を保ちながら搗く方法は、踏む力が均等でないため、横木を使う場合より疲労が多いという。それにもかかわらず、このような型の踏臼が使われたのは、能率が良いという理由があったのであろう。
8

からうす
1碓

2踏み台23支柱34横木45杵56臼67髷(ブクサントゥ)78鉢巻89子供910おんぶ紐1011チョゴリ(ミンチョゴリ)1112たくし上げたチマ(ゴドルチマ)12


13 下着のパッチ14 藁履
15子供を負ぶう16支え綱を持つ17手拭い頭巾18履紐
19 碓を搗く20 老婆21黍きび箒ぼうき22 木槌23 俵
24 俵を締める
13 14

17 18

20 21 22 23


25 髷(メンサントゥ) 25
26 チョゴリ 26
27 結び紐(ゴルム) 27


28 パッチ 28
29 脚絆 29
30 醤油甕 30
31 甕置き台 31

33 角柱 33
34 貫 34
35 礎石 35
36 草屋根 36
37 垂木 37
38 藁壁 38
39 押さえ縄 39




この場面では、碓が民家の庭の一角に設けられているが、実際は各戸が搗き屋を持つことは少なく、村共同で利用・管理する搗き屋が一般的であった。
碓を搗く作業は主に女性の仕事であった。図の中に、子供を背負う女性は鉢巻をし、チマの下にみえるパッチは紐で止められ、藁履はドルメと呼ばれる結び紐で結んでいる。チマはたくし上げられ、腰紐で留められており、労働をする庶民の女性の典型的な姿である。搗き屋右下の老女は箒で臼からこぼれ落ちた穀物を掻き集めている。
その左側の男性は、身体を丸めて脚を俵の上に置き、両手で縄を引っ張っているような姿勢であることから、俵を締めている動作と見受けられる。俵の端には桟俵が確認できることから、この時代にすでにこのような俵が使われていたことが推測できる。(金)

小正月の月迎え
1満月1 22 お下げ髪 22
2 稲竿(ビョッカリッテ)2 23 老婆 23
3 草屋根3 24 巻上げ髪 24
4垣根4 25 チョゴリ(ミンチョゴリ) 25
5垂木5 26 チマ 26
6柱6 27 下着のパッチ 27
7 明り窓7 28 子供 28
8 火防壁8 29 子供を負ぶう
9 甕の蓋(ソレギ)9 30 チョゴリ(半回装) 30
10 醤油甕10 31 子供を抱く
11 チョゴリ11 32 犬 32
12 巾着12 33 髷(メンサントゥ) 33
13 たればかま風のパッチ13 34 顎鬚 34
(オングパッチ) 35 両手を袖に入れる
14 裾紐14 36 脚絆 36
15 藁履15 37 石垣 37
16 防寒帽(風遮)16 38 藁にお 38
17 上衣(小 衣)17 39 草葺き上屋 39
18 杖18 40 門柱 40
19 皮履(バルマク)19 41 門扉 41
20 パッチ20 42 生垣 42
21 少女21


陰暦正月15日の満月を拝むために外へ出てきた月迎えの過ごし方を窺うことができる。人々を描いている。道を挟んで寄棟の家屋があり、正月15日、日本でいう小正月の行事は、祭儀、家屋のまわりに醤油甕が見える。家の敷地は生垣や遊び、占いなど数多い。この夜に、月迎えをする習石垣で囲われ、門が設けられている。ところどころ俗もその一つで、人よりも早く月見をすると吉であに樹木が植わっている。家屋の脇には稲竿(ビョッると考えられていた。満月に祈りを捧げると願いがカリッテ)も描かれている。通り沿いのムラが背景叶うとされ、また、月を見てその年の天候や作物のである。収穫を占った。この晩は、藁や松で小屋を作って焼
杖をつき、プンチャ(風遮)という防寒帽をかぶいたり、隣村との間で松明合戦を行ったりした。っている者、袂に手を入れている男の子、そして、ビョッカリッテという竿を立て、藁で穀物の穂を背中をまるめた若者の様子から、外気の寒さが伝わ作ってその上に吊るす行事も小正月に行われた。豊ってくる。左側の男の子は父親らしき男に手をひか年を祈願する予祝儀礼である。朝鮮時代、宮中でもれ、反対側の女の子は、赤ちゃんをおぶった年配女同様の行事が行われ、竿の高さや作り物(鳥、獣、性に寄り添っており、大人に促されて外に出てきた昆虫、草木)を競う風が強くなり、後に中止された様子が窺える。手前の若者は家屋の方を眺め、月にほど流行した。現在でも、この行事は一部の農村では関心がない様子だ。家屋内に人が見えず、全ての伝承されている。(中野)者が表通りに出てきて一緒に月を見ている。当時の





















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