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Thursday, May 16, 2013

japan,Germany and Italy,Tripartite alliance and the Concept of Eurasia block by Masaki Miyake

http://www.nids.go.jp/event/forum/pdf/2010/02.pdf

日独伊三国同盟とユーラシア大陸ブロック構想
三宅 正樹
1)ユーラシア大陸ブロック構想の先駆者としての後藤新平
松岡洋右やリッベントロップが抱懐したと考えられるユーラシア大陸ブロック構想の先行形態というべきものは、日本の政治家後藤新平が提唱した「新旧大陸対峙論」のなかに見られる。後藤は、ベルリンとミュンヘンで衛生学を学び、ペッテンコーファーの指導のもとに、日本とその他の国々における医事警察(Medizinalpolizei )と医事行政(Medizinalverwaltung )の比較論によって、医学博士号を取得して帰国した。台湾の民生長官として台湾に滞在した時期にエミール・シャルクの遺著『特にアメリカ合衆国とドイツとの関連における諸民族の競争』(1905 年)を熱心に読んで強い感銘を受ける。シャルクはドイツ人であるが、早くアメリカに渡って生涯をアメリカで過ごした。シャルクは、ロシアとアメリカ、とりわけアメリカが超大国へと発展を遂げるであろうことを予感し、ドイツはフランスとの抗争をやめ、ドイツとフランスだけでなくオランダ、イタリア、オーストリア・ハンガリー、スペインを含めた中央ヨーロッパ国家連合を結成して、強大化するロシアとアメリカに対抗すべきであると説いて、両国の強大化にほとんど気づいていない母国のドイツ人に警鐘を鳴らした。
後藤は、おそらくアメリカの超大国化に対するシャルクの予想と警告とに衝撃を受け、そこから、シャルクの論述を飛び越えて、シャルクがまったく論じていない「新旧大陸対峙論」を構想するに至った。強大化するアメリカに対抗するためには、旧大陸すなわちユーラシア大陸ブロックの連合が不可欠であると、後藤は、1907 年に、当時韓国統監であった伊藤博文に伊藤が滞在していた広島県の厳島で面会を求めて、三日間にわたって、伊藤に自分の「新旧大陸対峙論」を開陳した。はじめは後藤の議論に耳を貸そうとしなかった伊藤が、次第に後藤に説得されていったいきさつは、後藤の著書『厳島夜話』なかに印象的な筆致で叙述されている。伊藤に、後藤は、ロシアの有力政治家ココーフツォフとハルビンで会談することを勧め、後藤がすでにペテルスブルクで面識を得ていたココーフツォフをハルビンに招くことに成功した。伊藤のハルビンへの旅は、しかしながら死への旅となった。ハルビンでココーフツォフとの会談を終えた直後に、韓国併合に消極的な伊藤は暗殺された。
ロシア革命によるボリシェヴィキ政権成立後、後藤は短い期間外務大臣としてシベリア出兵を促進する役割を果たしたが、シベリア出兵が失敗であったことを見極めると、ソ連との国交回復に尽力し、1923 年にはヨッフェを日本に招いた。右翼の反対運動によって後藤は暗殺の危険にさらされたがひるまず、更に27年12 月には脳溢血の後の不自由なからだで厳寒のモスクワを訪問し、28 年1 月には二度にわたってスターリンと会談を行なった。後藤は、革命前であろうと後であろうと、日本にとってのロシアの地政学的位置は変らないと考え、日本とロシアにドイツをも加えた国家連合の結成を模索し続けた1。
2)陽明文庫から発見された日ソ独伊四国ブロック構想を示す文書(1939 年7 月19 日)
京都市右京区宇多野に、近衛文麿もその一員である近衛家の文書館「陽明文庫」が、今も樹木にかこまれて静かなたたずまいを見せている。ここには、近衛家の祖先の藤原道長がみずから書き加えた日記である御堂関白記など、珍しい古文書の類が大切に保存されている。近衛文麿も自分が入手した重要文書をここに保管していた。
旧海軍軍人で、戦後は防衛庁戦史室長、防衛大学校教官などを歴任し、今は故人となった野村実博士の著書『太平洋戦争と日本軍部の研究』は、その経歴と立場から利用出来た貴重な史料を多数収録している。このような研究活動の一環として、野村は、陽明文庫に納められている近現代史関係の文書を閲覧することを許された。野村の記しているところによれば、野村はこれらの文書の閲覧中に、作成者の名が記してない縦罫の罫紙11 枚にびっしりとタイプされた「事変を迅速且つ有利に終熄せしむべき方途」と題する文書に目をひかれた。この文書は、最後に「14・7・19・稿」とある。つまり昭和14 (1939 )年7 月19 日に書かれたことが記されているだけで、作者は記されていない。この文書は、独ソ不可侵条約成立前に日ソ独伊の国家連合を日中戦争解決の手段として提唱した文書として注目される。野村は、この文書を作成して近衛文麿に渡したのは、従来推測されているように白鳥敏夫ではなく、1940 年7 月に第二次近衛内閣の外相に就任する松岡洋右であるという考えが、最近ではますます強くなる、と述べている。この文書は、次の引用が示すように、日中戦争を解決する最善の手段は、日ソ独伊四国の提携であると述べている2。
1 三宅正樹「後藤新平の外交構想」『環 歴史・環境・文明』第29 号、特集「世界の後藤新平 後藤新平の世界」、藤原書店、2007 年4 月、ならびに、三宅正樹著『ユーラシア外交史研究』河出書房新社、2000 年、第1部第5章「後藤新平の『新旧大陸対峙論』」参照。エミール・シャルク(Emil Schalk 1838~1904 年)の遺著『特にアメリカ合衆国とドイツとの関連における諸民族の競争』の原題は次の通りで、懸賞論文の番外作品が筆者の歿後に刊行されたものである。Der Wettkampf der Volker, mit besonderer Bezugsnahme auf Deutschland und die Vereinigten Staaten von Nordamerika, Jena,
1905, Natur und Staat, Beitrage zur naturwissenschaftlichen Gesellschaftslehre. Eine Sammlung von Preisschriften, Herausgegeben von Prof. Dr. H. E. Ziegler in Verbindung mit Prof. Dr. Heackel, Siebenter Teil.2 野村実著『太平洋戦争と日本軍部の研究』山川出版社、1983 年、201~218 頁。
<目下、.政権は二本の柱、又は二本の脚で以て支持されて居ること世俗の知る通りである。それが英ソ両国であることにも疑問はない。
若し二本の柱の中、一本を奪うことが出来たら此の事変は意外に速(すみやか)に収拾出来るであろう。そして若し奪うべき一本の支柱がソ聯であった場合は、凡そ向後半歳を出でずして今次事変を完全に終熄せしむることが確実に可能である。
ソ聯は日本を敵視し、日本はソ聯を敵としてきた。この行き掛りを棄てて、この状態を逆にすることは出来ないか。即ち英仏の陣営よりソ聯を離間し、目下行われつつある英ソの交渉を暗礁に乗り上げさせることは出来ないか。そして日ソ独伊の陣営を結成する方法は無いか。
日ソが手を握れば、その事だけで支那の向背、事変の趨勢は忽ちの中に決定する。それでも猶お重慶政府が抗戦する場合は、重慶においてクーデターを断行することも容易となろうし、それこそ.を捕えることでも何でも出来る。但し左様な手段に及ばずして形勢が決定するであろうことを、断言して憚らない。そうなった暁、馬鹿をみるのは英国で、彼の手は長鞭馬腹に及ばず、彼が利権は東洋の天地より締め出しを喰うの外はない3。>
もしこの文書を作成したのが、野村の推測したように松岡洋右であったとすれば、この文書が陽明文庫から発見されたことから考えて、近衛文麿は当然、松岡の日ソ独伊連合構想を知っていたことになる。この推測が正しければ、その松岡を第二次近衛内閣の外相に起用した近衛は、松岡がこの構想を実現することを期待していたと考えられる。
3)独ソ不可侵条約
独ソ不可侵条約調印に際してモスクワを訪れたドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップとスターリンとの1939 年8 月23 日から24 日にかけての会談をモスクワのドイツ大使館参事官アンドール・ヘンケが記録に残し、ドイツ外務省外交文書に収録されている。リッベントロップは、ノモンハン事変で交戦中のソ連と日本との対立を調停する用意があると述べたが、日本の挑発に対する忍耐には限度があると述べたスターリンの日本に対する態度は強硬であり、リッベントロップの示唆したドイツの調停を拒絶している。
この条約の秘密付属議定書では、第一に、バルト四国を独ソ間で分割し、フィンランド、エストニア、ラトヴィアをソ連に、リトアニアをドイツに帰属させることが取極め
3 義井博著『増補 日独伊三国同盟と日米関係』南窓社、1987 年、79~80 頁。
られた。第二に、ポーランドをナレフ、ヴィスワ、サンの三河川を境として独ソ間で二分割することが取極められた。第三に、ルーマニア北部のベッサラビアに対し、ドイツはいかなる政治的関心も持たぬ旨がドイツ側から表明された4。
この時点まで独ソ接近は無いと考え、独伊との軍事同盟条約の対象をソ連に限定するか、英仏をも含めるかで逡巡を重ねていた平沼騏一郎内閣は、独ソ不可侵条約成立に驚愕し、欧州に複雑怪奇なる新情勢が生じたという政府声明を発表して39 年8 月28 日に総辞職した。この時点から、日本国内に、にわかに日ソ独伊連合待望論が台頭した。
このような日ソ独伊四国連合待望論の最も早い出現は、独ソ不可侵条約が締結された翌日の39 年8 月24 日に、海軍大佐高木惣吉の作成した「対外諸政策の得失」という文書である。高木はこの時、海軍省調査課長であり、西田哲学に傾倒していて、この年の二月には男爵原田熊雄のはからいで大磯の原田邸で西田幾多郎に面会している。
高木が作成したこの文書は、「孤立独往政策」、「英仏(米)トノ聯合政策」、「独伊蘇トノ聯合政策」という三とおりの政策について、それぞれ利点と不利点を論じ、結論としてドイツ、イタリア、ソ連との「聯合政策」が日本が選択すべき最も有利な策であると断定する。ドイツ、イタリア、ソ連との「聯合政策」の利点として、高木大佐は、この文書で、次の事柄を挙げている。第一に、この政策は現存する日独伊の友好関係を基礎として出発し得るが故に、たとえ独ソ不可侵条約によって若干の感情的なひびが生じたとしても、実現の可能性が極めて大である。第二に、イギリスの.介石支援(援.)政策は、主として経済的性質のものであるが、既におおむね行き詰まっていて、欧州情勢が緊迫すればいよいよ中国をかえりみる余裕が少なくなるであろう。これに反してソ連は武力援助を継続しており、今後一層これを強化し得る見通しが増大した。したがって、日独伊ソの聯合提携は、ソ連をして.介石支援を打ち切らせ、中国との事変を速やかに解決し得るに至る望み大である5。
日ソ独伊四国の提携が生み出す利点として、高木の文書が、当面の時局の収拾に貢献することとならんで、日ソ戦争が日本国家の運命を危うくするとしているところに、日本海軍の一部に日本陸軍の暴走による、ノモンハン事件よりもっと本格的な対ソ戦争が勃発することへの恐怖感が存在していた事実がうかがわれる。ノモンハンの戦場では、独ソ不可侵条約成立の八日前の39 年8 月20 日から、極東ソ連軍とモンゴル軍との総攻撃が開始され、日本側の、陸軍中将小松原道太郎の指揮する第二十三師団は壊滅的な打撃を蒙っていた。しかし、ノモンハンでの大敗北が、日本陸軍上層部が、高木の憂慮していた対ソ戦開戦に少なくともこれ以前よりは慎重になる、という結果をもたらした。
4 三宅正樹著『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』(朝日選書)朝日新聞社、69~72 頁参照。5 三宅同書、80~87 頁。
日本海軍上層部の中にはもともとソ連との友好を重んじたいという伝統があった。高木をも含めて、海軍上層部は日独伊三国同盟には反対していたが、独ソ不可侵条約によって俄かに可能性が開けてきた日ソ独伊四国連合の構想なら積極的に支持するという姿勢に転じたのは、海軍出身の首相加藤友三郎以来の親ソ的伝統を考えればそれ程不思議ではない6。
陸軍の中にも、独ソ不可侵条約成立直後から、日独伊ソの軍事同盟構想が芽生えていた。ノモンハン事変で関東軍が極東ソ連軍に大敗北を喫しつつあった39 年8 月27 日に作成され、同日、関東軍司令官植田謙吉陸軍大将の名前で参謀総長の閑院宮仁載親王(かんいんのみや・ことひとしんのう)宛てに打電された「欧州情勢の急変に伴う時局処理対策に関する意見具申」に、この構想が示されていた。この意見具申では、ドイツとイタリアを利用してソ連側から休戦を申し出させて、ソ連に「日ソ不可侵条約」を締結させ、さらにイギリスに対抗する日独伊ソ四国の軍事同盟へと進むべきことが提案されていた。そこには、最初に次のように述べられていた。
「対ソ軍備を一層急速に充実すると同時に、ノモンハン方面のソ軍に対し徹底的打撃を与えつつ、他面ドイツ、イタリアを利用してソ連より休戦を提議せしむると同時に、速やかに日ソ不可侵条約を締結し、さらに進んで日独伊ソの対英同盟を結成し、東洋における英国勢力を根本的に芟除(せんじょ)してシナ事変の処理を促進完成するを要す」
7
イタリア大使として、ソ連と英仏を対象とする日独伊三国同盟の最も熱心な主張者のひとりであった白鳥敏夫は、日ソ独伊同盟推進論の急先鋒にかわった。東大法学部政治学教授矢部貞治は、39 年10 月30 日に昭和研究会で白鳥が講演し、ヨーロッパ情勢を分析し、結論として日ソ独伊同盟論を展開したことを記録している8。
しばしば『西園寺・原田日記』と呼ばれている原田熊雄述『西園寺公と政局』第八巻には、39 年11 月4日に阿部信行首相に会った原田が、阿部から、白鳥大使がこの間イタリアから帰って来て、日独ソ同盟によって英米追い出しをやらなければならない、と言っていたことが記録されている9。
これより少し前、独ソ不可侵条約成立直後の39 年9 月3 日、平沼内閣で外相をつとめ
6 酒井哲哉著『大正デモクラシー体制の崩壊 内政と外交』東京大学出版会、1992 年、153~155 頁参照。7 読売新聞社編、松崎昭一執筆『昭和史の天皇 29』(読売新聞社 1976 年)、261 頁。8 矢部貞治著『矢部貞治日記 銀杏の巻』読売新聞社、1974 年、261 頁。9 原田熊雄述『西園寺公と政局』第八巻、岩波書店、1952 年、112 頁。
た有田八郎夫妻が大磯の原田熊雄男爵邸に来て一日をともに過ごした時に、有田が心配して語った話の内容が記されている。有田は、「最近陸軍は独伊と軍事同盟を結ぼうとしてああいふ結果になり、結局失敗に帰したが、その連中が今度は独ソの不可侵条約に日本も加はって、日独ソといふ関係で軍事同盟をやってイギリスを叩かうといふ運動があり、謂はば左翼から右翼に転向した連中がその主動的勢力になっていて、すこぶる危いものである。それに陸軍の一部が共鳴してしきりにやっているのである」と述べたという10。
4)シュターマーの約束
阿部信行、米内光政の、それぞれ短命な内閣のあとに40 年7 月22 日に第二次近衛内閣が発足する。近衛は外相に松岡洋右を選んだ。9 月初めに、リッベントロップ外相の特使ハインリッヒ・シュターマーが来日し、9 日と10 日に松岡と秘密に会談したが、今も残っている十五項目の会談記録の中でも、特に重要なのは日本とソ連との親善についてドイツは、1878 年のベルリン会談の時にビスマルクが述べた「正直なる仲買人honest broker」の役割を果たすことを約束した第十項目である。この第十項目は、以下のように述べられていた。
「先ツ日獨伊三国間の約定ヲ成立セシメ然ル後直チニ蘇聯ニ接近スルニ然カス。日蘇親善ニ付獨ハ『正直ナル仲買人』タルノ容易アリ而シテ両國接近ノ途上ニ越ユベカラサル障害アリトハ覚エス従テ差シタル困難ナク解決シ得ヘキカト思料ス。英国側ノ宣伝ニ反シ獨蘇関係ハ良好ニシテソ聯ハ獨トノ約束ヲ満足ニ履行シツツアリ」11
第十四項目の中でシュターマーは、自分の述べている言葉は、ドイツ外相リッベントロップの言葉と受け取ってさしつかえない、と明言した。シュターマーの言っていることが正しいと仮定すれば、リッベントロップが、ノモンハンの戦争で極度に悪化した日ソ関係について、調停の役目をドイツが引き受けることを約束したことになる。そこから松岡が、独ソ不可侵条約をソ連と締結したドイツと同盟を締結すれば、ドイツとイタ
10 原田同書、66~67 頁。11 極東軍事裁判検察文書第1129 号、法廷書証第549 号、新田満夫編『極東軍事裁判速記録 第2巻』雄松堂書店、1968 年、240 頁。シュターマーと松岡の会談記録15 項目は『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(Akten zur deutschen auswartigen Politik, Serie D 、以下ADAP-D と略記する)、第11 巻の1、文書第44 号、東京のドイツ大使館からドイツ外務省宛1940 年9 月10 日発文書の註にも収録されている。
リアは1939 年5月に同盟条約を結んでいるのだから、日ソ独伊の連合、松岡の言葉では「四国協商」が可能になると考えたのも理解出来る。
5)オット大使発松岡外相宛て秘密書簡「G、1000号」
日独伊三国同盟への日本海軍上層部の反対を鎮め、枢密院での審議を容易にするために、松岡は、オイゲン・オット大使に、条約調印当日の40 年9 月27 日の日付で、条約第三条に記された三国が攻撃を受けた場合について、攻撃を受けたかどうかは三締約国間の「協議(consultation)」によって決定されるべきことは勿論とする旨を含んだ秘密書簡「G、1000号」を書くことを強要した。
日独伊同盟条約第一条には「日本国は独逸国及伊太利国の欧州に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す」、第二条には「独逸国及伊太利国は日本の大東亜に於ける新秩序建設に関し指導的地位を認め且之を尊重す」と規定され、第三条には次のように規定されていた。
「日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク協力ニ付相互ニ協力スベキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レ加野一国ガ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参入シ居ラザル一国ニ依テ攻撃サレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スベキコトヲ約ス」
第三条だけを見る限り、日独伊三国のうちのいずれか一国がアメリカから攻撃を受けた場合、他の二国はただちに自動的にアメリカとの戦争に参戦するように見える。ところが、ドイツ大使オットが署名したこの「秘密書簡G、1000号」は、「一締約国が条約第三条の意味に於て攻撃されたりや否やは三締約国間の協議に依り決定せらるべきこと勿論とす」という内容をドイツ側が承認したことを意味していた。攻撃を受けたかどうかは三締約国間の「協議(consultation)」によって決定するというのは、自動的に戦争にひきずりこまれることを回避することを意味する。これによって、松岡は、日本の自主参戦の権利が確保されたと主張して、ドイツによって世界戦争にひきずりこまれるのを恐れた日本海軍を説得したのである。
この書簡には、日ソ関係に関して、ドイツは力の及ぶ限り友好的了解を増進する(promote a friendly understanding )ことにつとめ、いかなる時にも右目的のために周旋の労をとる(offer its good offices to this end) も記されていた12。
12 オット発松岡宛書簡G、一〇〇〇号の邦訳は、三宅正樹著『日独伊三国同盟の研究』南窓社、
オット発書簡G、1000号については、リッベントロップは、条約調印の時にも、またそれ以後にも知らされていなかった。このことについては、アメリカの歴史学者ヨハンナ・メンツェル・メスキルの、ドイツの学術雑誌『現代史四季報』1957 年第2号に発表した論文13と、のちにドイツの代表的な週刊新聞『ディ・ツァイト』の主筆となったテオ・ゾンマーの博士論文『列強のあいだのドイツと日本:日独防共協定から三国同盟まで』(1962 年)の綿密な考証がある14。
極東国際軍事裁判の国際検察局(International Prosecution Section, IPS )の記録に含まれているオットとシュターマーの訊問調書からも、両名が東京から電信でリッベントロップの許可を求める努力をせず、この秘密書簡を両名のいずれもリッベントロップに提示しなかったことが証明出来る。しかし、この書簡は、日本海軍と枢密院の抵抗を鎮める上では大いに役立ったのである。
5)日独伊三国同盟の成立と「秘密書簡G、1000号」
松岡シュターマー会談は、1941 年9 月9 日と10 日に、千駄ヶ谷の松岡洋右私邸で極秘裏に行なわれた。新聞記者に気付かれないように細心の注意が払われたようである。この会談の要旨十五項目は、先に説明した通りである。この会談の後、シュターマーと松岡の間では、日独伊三国同盟条約第三条が想定している独米戦争勃発の際に、日本は自動的に参戦の義務を負うのではなく、日本が参戦するかしないかを日本は自主的に決定するという問題をめぐって、議論が続けられた。松岡は、参戦の自主的決定を条約の付属交換公文に書き込むことを要求した。結局、シュターマーの独断でドイツ大使オットから松岡宛の書簡に、一締約国が条約第三条の意味で攻撃されたか否かは三締約国間の協議により決定せられるべきは勿論のこととする、という文章を入れることで決着した。
同盟条約第三条には、「日本国、独逸国及伊太利国ハ前記ノ方針ニ基ク努力ニ付キ相互ニ協力スベキコトヲ約ス更ニ三締約国中何レカノ一国ガ現ニ欧州戦争又ハ日支紛争ニ参
1975 年、554~556 頁、英文は557~558 頁、独文は559~561 頁に掲載されている。また、英文は1946 年3 月12 日のタヴェナー検察官によるオットの尋問の記録にも含まれている。タヴェナーはこの文書をオットに示して、オットの確認を求めている。International Prosecution Section, File No. 324: Interrogation of Major General Eugen Ott. 粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検察局(IPS)尋問調書』第41 巻、日本図書センター、1993 年。
13
Johanna Menzell Meskill, “Der geheime deutsch-japanische Notenaustausch zum Dreimachtepakt (Dokumentation)”, Vierteljahrshefte fur Zeitgeschichte(Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt, 1957), Heft 2.
14
Theo Sommer, Deutschland und Japan zwischen den Machten. Vom Antikominternpakt zum Dreimachtepakt(Tubingen:J.C.B.Mohr, 1962), S. 437f. 金森誠也訳『ナチスドイツと軍国日本 防共協定から三国同盟まで』時事通信社、1964 年、575 頁。
入シオラザル一国ニ依テ攻撃セラレタルトキハ三国ハ有ラユル政治的、経済的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スベキコトヲ約ス」と規定されていたが、自動的参戦を秘密書簡によって否定することによって、第三条の狙った威嚇の効果は減殺されることは疑いない。松岡は秘密書簡ではなく条約の付属交換公文(exchange note )とすることを主張した。シュターマーが、このようなことを盛り込んだ条約の付属交換公文をベルリンは承諾しないであろう、と抵抗したのは当然であった15。
さらにここで、もう一つの問題を提起することが出来る。もし、オットとシュターマーのいずれかひとり、あるいは両名がそろって、東京からの電信で秘密書簡G、1000号の内容をベルリンに送信したと仮定すれば、その電信はただちにアメリカの諜報機関によって捕捉され、解読されていたであろう。そうならば、アメリカは、公開された三国同盟条約第三条の自動参戦の条項は、この秘密書簡によって骨抜きにされ、アメリカを威嚇する効果は消滅していた事実を知ったであろう。三国同盟がアメリカに対するこけおどしに過ぎない事実をアメリカが把握していたならば、アメリカが三国同盟をあれほど敵視することはなくなり、三国同盟が日米関係をあれほど悪化させることもなかったかも知れないのではなかろうか。
敗戦の直後の1945 年12 月から翌年1 月にかけて海軍の首脳陣の人々が集まって海軍戦争検討会議という座談会を四回開催した。46 年1月17 日の座談会では日独伊三国同盟が主題として取り上げられた。40 年9 月5 日に吉田善吾にかわって海軍大臣に就任したのは及川古志郎であるが、この座談会には吉田、及川、そして、シュターマーが来日した40 年9 月7 日に海軍次官に就任した豊田貞次郎や、近藤信竹、井上成美らの五人の元海軍大将をはじめ、住山徳太郎ら三人の元海軍中将、四人の元海軍少将、七人の元海軍大佐、三人の元海軍中佐、そして榎本重治書記官が出席している。
この中で、第三次近衛内閣発足と同時に松岡にかわって41 年7 月18 日に外相に就任した豊田貞次郎が、核心に迫る証言をしている。豊田は、証言の初めのほうで、次のように述べている。
「松岡の同盟の趣意は七、八項目あったが、その主眼点は、英独戦争に於いては日本の援助を要しないこと、および日、独、伊、ソ連にて米の参戦を牽制して、なるべく早く世界平和を回復したいというにあり。」
15 この書簡に盛り込まれた内容を、初め松岡が交換公文とすることを要求し、オットとシュターマーが強く抵抗したことについては、三宅同書収録の「日独伊同盟条約締結要録」の特に499~500 頁を参照。
この証言から、松岡がシュターマーとの会談記録にあった要点を豊田に伝えたらしいことが見て取れる。この後の証言はとりわけ重要と思われる。
「即ち支那事変解決のため、日本の孤立を防ぐため、米参戦を防止するには、ソ連を加えて四国同盟の他なく、この度は自動的参戦の条件もなく、平沼内閣当時、海軍が反対した理由は、ことごとく解消したのであって、出来た時の気持は、他に方法がないということだった。」16
イギリスやアメリカとの戦争に、三国同盟条約第3条に規定されたような自動的参戦の条項によってひきずりこまれることこそ、海軍上層部が最も恐れていたところであった。松岡は、日ソ独伊四国連合案と、ドイツ側から強引に取り付けた参戦についての自主的決定を容認する約束とによって、海軍上層部の反対論を鎮めてしまったが、松岡による条約の実質的な修正をアメリカは把握していなかった。おそらく、1946 年3 月に国際検察局IPS(International Prosecution Section )がオット、シュターマーの二人の元駐日ドイツ大使を尋問して初めて、アメリカはこの事実に気づいたものと思われる。この訊問で、フランク・S.タヴェナー検察官が秘密書簡G、1000号について執拗極まる訊問を続けたのは、アメリカ側がこの事実を知って愕然とした、その驚きの表れと考えられる。
ここに、粟屋憲太郎・吉田裕編集・解説『国際検事局(IPS)尋問調書』41 巻に収録されているオットの尋問調書の中で、1946 年3 月6 日に行われたG、1000号をめぐる尋問のさらに極く一部をたどってみたいと考える。
オット元ドイツ大使への尋問から、同盟条約第三条の「攻撃」という表現に「挑発によらざる(unprovoked)」という文言を付け加えることにこだわり、ドイツ政府からこれが拒絶されると、松岡は、今度は条約に付属する秘密条項の中に第三条の意味で攻撃されたか否かは、三国の協議(consultation )によるという文言を入れることを要求したことが裏付けられる。ドイツ政府が秘密条項を設けることを一切拒否したのに対して、松岡は、この方向で天皇に上奏してしまってあるのだから、拒否されると自分はたいへん困った立場に置かれることになると主張した。オットによれば、それが松岡の発案であったか、自分か或いはシュターマーの発案であったかは、忘れてしまってもう思い出せないが、ともかく、オットが松岡宛ての書簡を書き、そこに日本側の要求を盛り込むことで決着がついた。この書簡すなわち「秘密書簡G、1000号」の中に、条約締結に
16 新名丈夫編『海軍戦争検討会議記録 太平洋戦争開戦の経緯』毎日新聞社、1976 年、77~78 頁。
至るまでの松岡の努力に感謝すること、同盟三国のうちの一国が同盟条約第三条の意味で攻撃を受けたか否かは、三国の協議によって決定されること、戦争になった場合にはドイツは日本に資源を援助すること、ソ連をこの同盟条約に加盟させるためにドイツは最善を尽くすことが記されていた。このようなオットの証言に対して、タヴェナー検察官は、この書簡が秘密条項の代替物であった事実をオットから確認し、協議という文言によってオットが条約の効力を限定しようとしたのか、と鋭く迫っている。これに対し、オットは、この協議が、紛争が生じた場合に自動的参戦を回避する結果を生ずるから賛成したのだと、自分の平和への意図をほのめかして自己弁護をするとも考えられる弁明をしている。
また、この書簡について本国の承認を取り付けたのか、というタヴェナーの問に対しては、その時間がなかったと弁解し、ドイツに帰国するシュターマーに、リッベントロップ外相への報告を一任したが、41 年3 月に、松岡外相のドイツ訪問に際してベルリンに戻ってシュターマーに質したところ、次の回答を得たと証言している。シュターマーが40 年11 月にベルリンに到着した時、丁度ソ連のモロトフ外相がベルリンを訪問していて、ソ連を三国同盟に加盟させるという秘密書簡に盛り込まれた希望がまさに成就されようとしていたので、自分(シュターマー)は秘密書簡をリッベントロップに見せる必要はない、と判断して、見せることをしなかった、とシュターマーがオットに答えた、と。何とも驚くべき無責任ぶりで、オットも仰天したらしく、貴君は条約締結の責任者であり、秘密書簡をリッベントロップに見せなければならない、とシュターマーに述べた、とオットは証言している。三国条約をめぐる、以上の興味深い内幕を、オットの証言は明らかにしている。また、タヴェナーは、日本の外務省から押収した「秘密書簡G、1000号」をオットに見せて、確認を求めている。
ユーラシア大陸ブロックの問題については、以上の尋問の数日前の、2 月27 日の尋問で、ロシアを三国同盟の軌道に取り込もうとしたドイツの試みは、日本に英国を攻撃させようとすることを目的としたものではなかったのか、というタヴェナーの問に対して、オットは次のように答えている。すなわち、オットは、日本を英国との戦争、具体的にはシンガポール攻撃に誘い込むために日独伊三国同盟を日ソ独伊四国同盟へと発展させようとしたというのが、ヒトラーやリッベントロップの考えであったのかも知れないが、自分は、ソ連の三国同盟加盟によって、同盟は極めて強力なものとなり、アメリカ合衆国との戦争の可能性はなくなる、と答えている。これは、明らかに自己弁護のための証言である。日独伊三国同盟締結の時点でオットの答のように考えていたのは、むしろリッベントロップであって、オットが東京で日本をシンガポール攻撃に誘い込むために工作していたのは、よく知られた事実である17。
6)独ソ関係の悪化
独ソ関係は、1939 年9 月28 日に、リッベントロップがモスクワを訪問し、ドイツ軍が独ソ不可侵条約秘密付属議定書に規定された独ソの境界線を越えて占領してしまったワルシャワ市を中心とする地域とルブリン州の領有をドイツに認めるかわりに、ドイツがリトアニアをソ連に譲渡することを規定した独ソ境界ならびに友好条約に調印した時が頂点であった。その後、40 年6 月27 日にソ連がルーマニア領ベッサラビアと、秘密付属議定書に規定されていなかった北部ブコヴィナを併合したことによって、独ソ関係は悪化した。特に旧ハプスブルク帝国領ブコヴィナを併合したことは、ヒトラーを怒らせた。ドイツ外相とイタリア外相チアーノは、6 月30 日、第二回ウィーン裁定によって、残されたルーマニア領に保証を与えて、石油の確保をめざしたが、このことが独ソ関係をさらに悪化させた。40 年9 月27 日に、フィンランド政府がドイツ軍のフィンランド通過を承認する協定をドイツと締結したことは、独ソ関係を決定的に悪化させた。ヒトラーは、すでに40 年7 月30 日のハルダーら軍幹部との会合で、翌年春に対ソ作戦を開始する決意を語っていた18。
7)モロトフ・ヒトラー・リッベントロップ会談
40 年11 月12 日と13 日のベルリンでのモロトフとヒトラーの会談は、フィンランドへのドイツ軍派遣をめぐって事実上決裂した。両者が最もはげしく対立したのは、このフィンランド問題であったが、ルーマニアのブコヴィナをソ連が併合したしまった事実やドイツとイタリアが残されたルーマニアの領土を保障した「ウィーン裁定」についても両者は対立した。ブルガリアについても、モロトフは強硬な主張を突きつけた。このように、モロトフとヒトラーの会談が事実上決裂したあと、リッベントロップは13 日夜のモロトフとの最後の会談で日ソ独伊四国連合案を提示した。モロトフは会談の結果をモスクワで検討することだけ約束してベルリンを去った。11 月25 日のスターリンの回答は、フィンランドからのドイツ軍の即時撤兵など、ヒトラーが到底受け入れられない条件を、ソ連の四国連合加盟への条件としたものであった。この会談の記録は、1948 年
17 International Prosecution Section, File No. 324: Interrogation of Major General Eugen Ott. 粟屋憲太郎・18吉田裕編集・解説『国際検事局(IPS)尋問調書』第41巻。
Generaloberst Halder, Kriegstagebuch, Band I. Vom Polenfeldzug bis zum Ende der Westoffensive (14.8.1939~30.6.1940), Bearbeitet von Hans-Adolf Jacobsen in Verbindung mit Alfred Philippi (Stuttgart:1962 、Kohlhammer), S. 24f.
にアメリカ国務省によって公表された独ソ関係の文書集『Nazi-Soviet Relations 1938~1941 』(邦訳『大戦の秘録』)19に収録されていてよく知られているので、ここでは詳しくは立ち入らないことにする。ただし、モロトフ、リッベントロップ両外相が、英国空軍のベルリン爆撃が始まったためにリッベンロップ外相専用の豪華な防空壕の中で40 年11 月13 日の夜9 時45 分から12 時まで行われた会談に際して、リッベンロップが日ソ独伊四国連合協定草案をモロトフに提示した経緯だけを記しておきたい。
この会談で、リッベントロップは、日独伊三国とソ連との協力に関する案を作成したので、まだ輪郭だけであるが、今日モロトフ氏に提示したい、と述べた。そして、この問題については、日本ともイタリアとも、このような具体的な形では、自分は話し合いをしていない、先ずドイツとソ連の間で、この問題を明らかにしておくことが必要だ、と自分は考えている、と付け加えた。さらに、これはドイツの提案というわけではなく、まだ荒削りな考えであって、ドイツとソ連の間で、そしてモロトフ氏とスターリン氏の間で検討しなければならないであろう、と述べた。この件についてイタリアと日本との外交交渉を進めるのは、問題をドイツとソ連の間ではっきりさせた時に、初めて意味を持つであろう、ともリッベントロップは述べた。
リッベントロップは、この協定を次のような形で提示した。
「三国協定参加国のドイツ、イタリア、日本の政府を一方とし、ソ連政府を他方とする四国政府は、各国の自然な境界の中で、参加するすべての国民の福祉に奉仕する秩序を導入し、これら国民のこの目的に向けられた協力に対して、確固たる、そして持続する基礎を創出することを願望して、次のように協定した。
第一条
一九四〇年九月二七日の三国条約において、ドイツ、イタリアと日本は、戦争の世界的抗争への拡大にあらゆる手段をもって対抗し、世界平和の早急な再建のために協力することを協定した。三国はその際に、彼らの努力に同様な方向を付与しようとする世界の他の地域の諸国民に協力を拡大する意思を表明した。ソ連は、この目標設定と連帯する旨を宣言し、三国とこの路線上で政治的に協力することを決意した。第二条
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、相互にその自然的勢力範囲を尊重する義務
Nazi-Soviet Relations 1938~1941. Documents from the Archives of the German Foreign Office, Edited by Raymond James Sontag and James Stuart Beddie, Originally published by United States Government Printing Office, for the Department of State, Washington, 1948, Reprinted in 1976 by Greenwood Press, Westport, Connecticut. 米国国務省編纂『大戦の秘録 独外務省の機密文書より』読売新聞社、1948 年。
を負う。この勢力範囲が抵触しあう場合には、四国はそこから生ずる諸問題について、継続して友好的に協議するであろう。第三条
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、四国が、四国に敵対する諸国の集団にも参加せず、四国に敵対する諸国の集団を支持しないであろうということにおいて、意見が一致している。
四国は、経済的に全ての点で支援し合い、四国間に現存する諸協定を補完し拡大するであろう。」20
リッベントロップは、この条約の有効期間を10 年と考えており、この期間満了前に条約の延長について協議することとしたい、また、この条約は公開とし、四国の領土に関する希望について秘密協定を作成することが可能であろう、と述べた。そして、ドイツに関しては、講和条約によって実現される領土の変更を別とすれば、中央アフリカを領土として獲得することを希望する、イタリアの領土に関する希望の重点は、講和条約によって実現される領土の変更を別とすれば、北アフリカおよび北東アフリカにある、と述べた。日本の希望に関しては、まだ外交によって解明される必要があるが、例えば日本帝国と満州国の南に引かれる線が確定されるというような方式で、簡単に境界線が見出されるであろうし、ソ連の領土に関する希望の重点は、恐らくソ連の領域の南、インド洋の方向にあるであろう、とリッベントロップは付け加えた21。
リッベントロップは、日ソ関係について、次のように述べた。
「モロトフ氏もご承知の通り、自分(ドイツ外相)は常に、日本とソ連との関係に対して特別の関心を表明して参りました。もしモロトフ氏が、この関係は現在どうなっているかを教えて下さることが出来れば有り難い次第です。ドイツ政府が知らされている限りでは、日本は不可侵条約締結を特別に重要視しています。自分に直接かかわりのない事柄に介入する積りはありませんが、この問題も自分とモロトフ氏の間で検討されれば有益であると考えます。ドイツ側からの仲介のための影響力行使が望ましいのであれば、私はよろこんでそうする用意があります。スターリン氏が、自分はフォン・リッベントロップ氏よりもアジア人をもっとよく知っていると言われた時のスターリン氏の言葉を、私は、たしかにまだよく記憶しています。にもかかわらず、私は、日本政府のソ連との広範囲にわたる合意の用意がある事実を自分が知っていることについて、言及せずに済ましたいとは思いません。私は、不可侵条約が成立すれば、日本は他の全ての問
20 Nazi-Soviet Relations 1938~1941 、pp. 249. 『大戦の秘録』324 頁。21 Ibid., pp.249f. 『大戦の秘録』324~325 頁。
題を寛大なやり方で解決する用意があるという印象を持っています。私は、日本がドイツ政府に仲介を求めてはいないという事実をはっきりと強調しておきたい、と思います。けれども自分(ドイツ外相)は、事態がどうなっているかを知らされており、日本側には、不可侵条約調印の場合に、外蒙古と新疆におけるロシアの勢力範囲を、中国との合意を前提として承認する用意があることを知っております。英領インドの方向へのロシアのあり得べき希望についても、ソ連と三国条約締約国との間の協定が成立した場合には、合意が達成されるでありましょう。日本政府は、樺太の石油と石炭の採掘権に関するソヴィエトの希望に応じる用意があるが、しかし前もって国内の抵抗を克服しなければなりません。もし、前もってソ連との不可侵条約が締結されるならば、このことは、日本政府にとってより容易になるでしょう。その後に、疑いもなく他の全ての点についても、協調の可能性が開かれるでありましょう。」22
リッベントロップが、自分の提示した諸問題についてのモロトフ氏の見解をうかがいたい、と言ったのに対して、モロトフは、日ソ関係について次のように答えた、と記録されている。
「モロトフ氏は、自分は日本に関して、協調の過程において、これまでそうであったよりはより迅速に進行するであろう、という期待と確信を持っています、と答えた。日本との関係は、常に困難と悪化に満ちたものでありました。にもかかわらず、今、協調への見通しが存在しているように思われます。日本政府は、ソ連政府に不可侵条約の締結を、しかもまだ内閣の交替の前に(原注 一九四〇年七月一六日に米内内閣が退陣し、翌日に近衛公爵が新内閣を組閣した)、提案しました。その際に、ソ連政府は、いくつかの質問を日本政府に提起しました。これらの質問への回答は、現在まだ届いていません。回答が到着した時に初めて、交渉が開始され得ます。この交渉は、全ての他の入りくんだ問題と切り離すことは出来ません。その結果、この問題の解決には若干の時間が必要でしょう。」23
モロトフは、イギリスとの戦争にすでに勝利を収めた、という考えからドイツ側が出発している、と指摘し、それ故、ドイツはイギリスとの戦争を、生死を賭して戦っている、ということが言われる場合には、自分としては、ドイツは「生を」、そしてイギリスは「死を」賭して戦っているとしか、理解出来ない、とかなりの皮肉をまじえて述べた。勢力範囲の確定については、スターリンなどのこれに関する見解を自分は存じていない
22 Ibid., p. 251. 『大戦の秘録』326 頁。23 Ibid., p. 252. 『大戦の秘録』327 頁。
ので、最終的な態度の表明は出来ない、とモロトフは語った。そしてモロトフはリッベントロップに心からの別れの挨拶を述べ、空襲警報のおかげで、ドイツ外相殿とこれだけたっぷりと話し合いが出来たのだから、空襲警報を恨んではいません、と強調した24。
空襲警報のおかげで、ドイツ外相殿とこれだけたっぷりと話し合いが出来た、というのも痛烈な皮肉であった。この会談には、ウインストン・チャーチルの『第二次大戦回顧録』第二巻が伝えている後日談がある。イギリスの戦時内閣首相チャーチルは、1942 年夏にモスクワを初めて訪問した。スターリンは、この時チャーチルに、モロトフが1940 年11 月に、ベルリンにリッベントロップを訪問した時、貴方はそれを察知してベルリンを空襲させましたね、と質問し、チャーチルは肯定の意味でうなずいた。リッベントロップは豪華な内装の防空壕にモロトフを案内し、モロトフが部屋に入った時に空襲が始まった。スターリンによれば、「イギリスは終わりだ」と言うリッベントロップに対して、モロトフは、「もしそうだとすれば、何故我々はこの防空壕に入っているのですか、そして、落ちてくる爆弾はどの国のものなのですか」とやり返したという25。
8)モスクワのドイツ大使館で戦後発見された日ソ独伊四国協定案
独ソ戦がドイツの敗北で終結した後、モスクワにあった旧ドイツ大使館の秘密文書の中から、「三国条約締結国とソ連との間の協定草案」が発見された。インゲボルク・フライシュハウアーは、この草案はモスクワのドイツ大使館で、40 年11 月11 日のモロトフのモスクワ出発に間に合うように作成されたものと断定している26。フライシュハウアーによれば、モロトフの一行に随行するドイツ大使シューレンブルクが、ベルリンにこの草案を携行した27。従って、この日ソ独伊四国協定案は、モスクワのドイツ大使館で作成され、シューレンブルクがベルリンでモロトフに提示し、説明した、ということになる。フライシュハウアーは、40 年9 月22 日から10 月15 日までモスクワを離れてベルリンに滞在していたシューレンブルクのベルリンでの成果は、モロトフのベルリンへの招待の実現と、10 月13 日付けのリッベントロップからスターリン宛ての書簡である、
24 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ第11 巻の1、文書第329 号。ヒルガー大使館参事官による独ソ外相最終会談の覚書。Nazi-Soviet Relations, p. 254.『大戦の秘録』329~330 頁。
25
Winston S. Churchill, The Second World War, Volume II, Their Finest Hour (London:Cassell, 1949), pp. 517~518. ウインストン・チャーチル著、毎日新聞翻訳委員会訳『第二次大戦回顧録 8』毎日新26聞社、1951 年、148~149 頁。
Ingeborg Fleischhauer, Diplomatischer Widerstand gegen “Unternehmen Barbarossa”. Die Friedensbemuhungen der Deutschen Botschaft Moskau 1939-1941(Berlin/Frankfurt am Main:Ullstein, 1991), S. 224. 27 Ebenda, S. 229.
と考えている。この書簡は、シューレンブルクからの顕著な直接の影響を示している28。同じくフライシュハウアーによれば、日ソ独伊四国条約の理念は、シューレンブルクがベルリン滞在中に提案したものであるが、この理念がドイツ外務省の中でどのような発展をたどったのかを厳密に検証することは不可能である。リッベントロップがロシアを含めた強力な大陸ブロックの創設に、イギリスを屈服させる可能性を認めたことは疑いないが、ヒトラーがこのような理念に肯定的であったとは考えにくい。このような解決法をヒトラーがそもそも真剣に考慮したかどうかも疑問である、とフライシュハウアーは論じている29。
モスクワで発見されたこの四国条約案の内容は、リッベントロップがモロトフに提示したものと第一条と第二条については完全に、第三条については若干の表現の違いはあっても、ほぼ合致している。ただし、リッベントロップの提案は第三条までであったのに対して、リッベントロップが口頭で述べた有効期限が、第四条として条文化されている。
「三国条約締約国とソ連との間の協定案
三国協定参加国のドイツ、イタリア、日本の政府を一方とし、ソ連政府を他方とする四国政府は、各国の自然な境界の中で、参加するすべての国民の福祉に奉仕する秩序を導入し、これら国民のこの目的に向けられた協力に対して、確固たる、そして持続する基礎を創出することを願望して、次のように協定した。
第一条
一九四〇年九月二七日の三国条約において、ドイツ、イタリアと日本は、戦争の世界的抗争への拡大にあらゆる手段をもって対抗し、世界平和の早急な再建のために協力することを協定した。三国はその際に、彼らの努力に同様な方向を付与しようとする世界の他の地域の諸国民に協力を拡大する意思を表明した。ソ連は、この目標設定と連帯する旨を宣言し、三国とこの路線上で政治的に協力することを決意した。第二条
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、相互にその自然的勢力範囲を尊重する義務を負う。この勢力範囲が抵触しあう場合には、四国はそこから生ずる諸問題について、継続して友好的に協議するであろう。第三条
28 Ebenda, S. 218f. 29 Ebenda, S. 224f.
ドイツ、イタリア、日本ならびにソ連は、四国が、四国に敵対する諸国の集団にも参加せず、四国に敵対する諸国の集団を支持しないであろうということにおいて、意見が一致している。
四国は、経済的関係において全ての方向に支援し合い、四国間に現存する諸協定を補完し拡大するであろう。第四条
この協定は調印と同時に効力を発生し、十年間有効とする。四国政府はこの期間終了前に協定の延長問題について適時に相互に協議する。
ドイツ語、イタリア語、日本語とロシア語の四通の原本で作成された。モスクワ、一九四〇年 月日。」30
モスクワのドイツ大使館で作成され、リッベントロップの承認を得たと考えられる以上の四国協定案には、ドイツ外務省外交文書集の原注によると、最初の頁の右上に鉛筆で「9.11.40 」という書き込みがあるとのことである。モロトフがモスクワを出発する40 年9 月11 日に間に合うように、シューレンブルクを初めとするモスクワのドイツ大使館員が大急ぎで完成させたことがうかがわれる。40 年11 月9 日という日付けは、この案が完成した日を示すものであろう。リッベントロップがモロトフに、この案の説明をしたことはドイツ外務省外交文書集に収録されたヒルガーの記録からはっきりしている。しかし、連合軍が押収したベルリンのドイツ外務省外交文書からはこの案が発見されず、モスクワのドイツ大使館からだけ発見された、というのはいささか不可解であり、謎が残る。普通であれば、ベルリンのドイツ外務省に、原本でなくともコピーは残されていたはずである。モロトフがリッベントロップからコピーを渡されて持ち帰ったことは確実であろう。これから紹介するソ連側の回答に、日ソ独伊四国協定案を条件付で受諾する、とあることからも、そのことが推測される。日ソ独伊四国協定案は、旧ソ連外務省文書の中に今でも保存されているか、ナチス・ドイツと協議した事実を隠蔽するために廃棄されたかのいずれかであろう。
9)スターリンの日ソ独伊四国協定案への条件つき受諾回答ヒトラーの対ソ戦準備指令
モロトフは、11 月25 日にシューレンブルクを招いて、リッベントロップが提示した日ソ独伊四国協定案についてのソ連政府の回答を口述した。シューレンブルクが11 月26 日午前5 時34 分にモスクワからリッベントロップ宛てに発信した至急電報によれば、
30 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11 巻の1、文書第309 号。三国条約締約国とソ連との間の協定案。
その内容は以下の通りであった。
「ソ連政府はドイツ国外相殿の11 月13日の最終会談における説明の内容を検討した。そして、これについて以下のような立場を明らかにする。
ソ連政府は、ドイツ国外相殿によって11 月13 日の最終会談において略述された、政治的協力と相互の経済的支援に関する四国条約案を、次の条件のもとに受諾する用意がある。一)1939 年の協定によりソ連の勢力範囲に属するフィンランドから、ドイツ軍が直ち
に撤収される場合。その際、ソ連は、フィンランドとの平和的関係を確保すること、ならびにフィンランド内のドイツの経済的権益(木材とニッケルの輸出)を保護することの義務を負う。
二)次の数ヶ月中に、両海峡におけるソ連の安全が、ソ連と、その地理上の状況からすればソ連の黒海領域の安全保障地帯に位置するブルガリアとの間での、相互援助条約の締結、ならびに、ボスポラス・ダーダネルス両海峡地帯における、長期租借の基礎の上に立つ、ソ連の陸海軍兵力のための基地の創設によって保障される場合。
三)ソ連の希望の重点として、バツームとバクーの南、おおよそペルシャ湾の方向における地域が承認される場合。四)日本が北サハリンの石炭と石油に関する採掘権を放棄する場合。」31
モロトフが読み上げたこのソ連側回答は、実質的にはスターリンのヒトラー宛ての回答であった。アメリカの外交官でソ連大使もつとめ、外交史の研究者でもあったジョージ・F・ケナンは、これはソ連外交政策の歴史の中で最も興味深い文書のひとつである、と述べている。ケナンも示唆しているように、このスターリンの回答は、スターリンがまだ、四国条約への参加に対して高い代価をヒトラーから強要出来る、ヒトラーとくらべてはるかに有利な立場に自分がいると過信し、また、この回答を出発点としてこれからの交渉が始まるのであり、今回の交渉は全て予備的な取引に過ぎない、と考えていた事実を示す、と推定してよいであろう32。
しかし、この四条件のうち、フィンランドからの撤兵要求は、ヒトラーの側では受け容れる積りが全くなかった。このことは、モロトフとヒトラーとの第二回目の会談での
31 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11 巻の2、文書第404 号。モスクワ大使館からドイツ外務省宛て至急電報。
32
George F. Kennan, Russia and the West under Lenin and Stalin, (Boston/Toronto:Atlantic-Little Brown, 1960), p. 344. ジョージ・F・ケナン著、尾上正男・武内辰治監修、川端末人・岡俊孝他訳『レーニン、スターリンと西方世界――現代国際政治の分析』未来社、1970 年、237 頁。
ヒトラーの発言から明らかである。独ソ不可侵条約秘密付属議定書でドイツが約束した通りに、フィンランドを先ずソ連に引き渡しなさい、木材とニッケルがそんなにほしいのならば、後で供給することを約束するから、というのがこの回答の意味するところである。以下、モロトフのベルリンでの要求と、スターリンの回答ならびにシューレンブルクがリッベントロップ宛ての至急電報で伝えたモロトフの回答についての補足説明とを比較してみると、後者は前者をさらに吊り上げたものとなっている。詳細は三宅正樹著『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』を参照されたい。モロトフの説明には、日本の北サハリンにおける石炭と石油採掘権の、適当な補償を引き換えにしての放棄に関する日ソ間の議定書までもが要求されていた33
日ソ独伊四国条約に、以上のような条件付きでソ連は参加する用意がある、というこのソ連側の回答に対して、ヒトラーはもはや一切返事をしなかった。四条件に対応して、ソ連側は四国条約に付属する秘密議定書の案まで示している。このようなソ連側の態度から、ソ連側が、ヒトラーの独ソ戦決定が近くに迫っているとは見ていなかった事実がはっきりと浮かび上がってくる。
モロトフがベルリンに到着した40 年11 月12 日に、ヒトラーは「総統指令第一八号」を発令した。この指令は、フランス、スペイン、ポルトガル、エジプト、バルカン、イギリスなど広範囲の項目にわたるものであるが、ロシアの項目では、「近い将来のロシアの態度を明らかにする目的で、政治的会談が開始された。この会談がどのような結果をもたらすかに関係なく、すでに口頭で命令した東方に対する準備は続行されなければならない」と記してあった34。
しかし、対ソ戦争に対して具体的にどのような準備をすべきかをヒトラーが命令したのは、12 月18 日の「総統指令第二一号(バルバロッサ作戦指令)」によってである。11 月12 日の段階では、もしモロトフの伝達するであろうスターリンの態度が、ドイツに予想外の譲歩を示すものであったならば、対ソ戦をヒトラーが回避するか、あるいは少なくとも延期することはあり得たかも知れなかった。しかし、そのような事態は生じなかった。そして、スターリンの11 月25 日の最終回答は、ベルリンでモロトフが述べたものよりも、例えばボスポラス・ダーダネルス両海峡へのソ連軍事基地設置の要求では、さらに一層強硬であった。この回答へのヒトラーの対応が「総統指令第二一号」であった。
33 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11 巻の2、文書第404 号、モスクワ大使館からドイツ外務省宛て至急電報。三宅正樹著『スターリン、ヒトラーと日ソ独伊連合構想』、191~ 192 頁。34 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11 巻の2、文書第323 号「総統指令第一八号。」、三宅同書、193 頁。
「総統指令第二一号」の最初の、総論に相当する部分には、以下のように記されている。対ソ戦準備完了の期限、すなわち対ソ開戦の予定日として、41 年5 月15 日が想定されていたことがわかる。対ソ戦準備を絶対に秘密にしておくように、とも命じている。
「ドイツ国防軍は、イギリスに対する戦争の終結以前にも、ソヴィエト・ロシアを迅速な作戦行動によって打倒する準備をしなければならない。陸軍は、このために全ての使用可能な部隊を投入しなければならない。ただし、占領地域が奇襲に対して確保されなければならないことが条件となる。
空軍に関しては、東部の作戦行動に対して、地上作戦の迅速な終了が見込まれ、東ドイツ地域の敵の空襲による被害が可能な限り僅少にとどまる程の、極めて強力な戦力を、陸軍支援のために動員することが重要となるであろう。東部におけるこの重点の形成は、我々によって占領された戦闘地域ならびに武装地域が敵の空襲に対して十分に防衛されなければならず、イギリスに対する戦闘行為、特に補給が停止を許されない、という要請の中に、その限界を見出す。
海軍の投入の重点は、東部の作戦行動の期間中も、明確にイギリスに向けられ続ける。ソヴィエト・ロシアに対する進軍を、私は、場合によっては、予定された作戦開始の八週間前に命令するであろう。かなりの期間を必要とする諸々の準備は、まだ為されていない場合には、すでに今、着手しなければならず、41 年5 月15 日までに完了しなければならない。攻撃の意図が認識されないようにすることが決定的に重要視されなければならない。」
35
この後に、ロシア西部に存在するロシア陸軍の大軍を、ドイツ軍戦車をくさび型に展開するによって壊滅させ、広大なロシアの領土に戦闘能力のあるロシア軍が逃げ込まないようにすることや、作戦の最終目標は、ヴォルガ河とアルハンゲリスクの線で、ロシアのアジアの部分に対する防御線を確立することにあり、ウラル山脈ぞいの、ロシアに最後に残された工業地帯はドイツ空軍の空襲によって攻撃することなどの指令が続く。同盟国として、ルーマニアとフィンランドの軍事協力が予定されている。陸軍、海軍、空軍のそれぞれには、細部にわたる指令が記されている36。
「バルバロッサ作戦指令」の発令によって、ソ連との妥協による平和の余地は消えた。そして、日ソ独伊四国条約の構想も完全に消滅した。
35 『ドイツ外務省外交文書』D シリーズ(ADAP-D)第11 巻の2、文書第532 号「総統指令第二一号」。三宅同書、193~194 頁。36 同文書、三宅同書、195 頁。
8)日ソ中立条約
41 年3 月末から4月にかけて、モスクワ、ベルリン、ローマを歴訪した松岡外相は、ヒトラーやリッベントロップが、対ソ戦開始が近いことをほのめかしてソ連との条約締結を思いとどまらせようとしたのを無視して、4 月13 日にモスクワで日ソ中立条約に調印した。
かなりの限定を付けなければならないけれども、1941 年4 月13 日に第二次近衛内閣外相の松岡洋右がモスクワで調印した日ソ中立条約は、最初に述べた後藤新平の日ソ提携の遺志を継いだものと見ることも可能である。松岡は初代総裁の後藤から数えて第一三代の満鉄総裁であったし、後藤より22 年後に外相に就任している。松岡は1921 年には外交官を辞任して満鉄理事となり、27 年から29 年までは満鉄副総裁、35 年から3 年までは満鉄総裁であったから、かなりの時期を後藤が初代総裁をつとめた満鉄で過ごしている。
松岡は、41 年3 月24 日にモスクワでソ連の首相兼外相のモロトフと会い、その時に日ソ関係は改善されなければならないと自分は確信しているし、日ソ関係改善については、約三〇年前に後藤新平伯爵の本部で一種の課長のようなことをしていて、ロシアと日本との間に良好な関係を樹立するという、後藤伯爵の意見に共鳴した時から心にかけている、とモロトフに語っている。後藤新平伯爵の本部で一種の課長のようなことをしていたというのは、先にも見たように、1906 年11 月から翌年の11 月まで、旅順に置かれていた関東都督府の外事課長をしていたことを指している。
スターリンがモスクワのヤロスヴラリ驛に現われて松岡一行を見送り、松岡の肩を抱いて「我々はアジア人だ」と叫んだ話はよく知られている。モスクワ駐在ドイツ大使シューレンブルクは、スターリンが見送りの人々の中にドイツ大使シューレンブルクを見つけると、肩に腕を廻して、「我々は友人であり続けなければなりません。そのために、貴方は今、全力を尽くさなければなりません」と語ったことを、リッベントロップに電報で報告している。スターリンは、居合わせたドイツの陸軍武官補ハンス・クレープス(Hans Krebs )大佐がドイツ人であることを確めると、彼にも「我々は貴方がたとも、必ず、友人であり続けるでしょう」と語った。シューレンブルクは、「スターリンは、私とクレープス大佐への挨拶を故意に強調し、それによって意図的に、居合わせた大勢の人たちの注目を惹き付けたのです」と報告した37。
ドイツの対ソ戦開始こそ、日ソ独伊四国連合構想の最終的死亡宣告であった。しかし、
37 三宅同書、204~208 頁、215~226 頁参照。
ヒトラーとモロトフとの会談が決裂した後にヒトラーが40 年12 月18 日にバルバロッサ作戦準備指令を発した時に、この構想は死んだのであり、この構想にかなりの熱意をもっていたらしいリッベントロップも、これ以後はこの構想を断念したらしい。松岡に向ってベルリンでリッベントロップは、松岡がモスクワでソ連と条約を結ぶことにはっきりと反対した。6 月22 日の独ソ開戦は、松岡の立場に不利に作用し、7 月16 日の第二次近衛内閣総辞職によって、内閣から放逐された。
9)ヒトラーの親英反ソ路線とリッベントロップの反英親ソ路線
1936 年11 月に日独防共協定が出来てから1941 年6 月に独ソ戦が開始されるまで、日本の外交はヒトラーとリッベントロップの二人に振り回され続けた。リッベントロップは、ソ連を仮想敵とする日独防共協定を成立させておきながら、ソ連にドイツと日本が東西から圧力をかけようとする防共協定の路線への関心を失い、ドイツの仮想敵としてのイギリスを牽制するドイツとイタリアと日本とが協力する、という構想に強い関心を寄せるようになった。この構想は、リッベントロップがイギリス駐在大使としてロンドンに赴任していた時期に、1938 年1 月2 日の日付けで作成された「総統のための覚書」(以下では「リッベントロップ覚書」と記す)に、ヒトラーへの進言としてはっきりと示されていた38。
「リッベントロップ覚書」の中で、リッベントロップは、フランスがポーランド、チェコスロヴァキア、ルーマニア、ユーゴスラヴィアなどの「東方の諸同盟国」を守るためにドイツに対する軍事行動を起こすことは十分あり得ることであり、その際にフランスはイギリスの援助を当てにしているが、ドイツ、イタリア、日本の結合によって英帝国を牽制出来れば、フランスはイギリスの援助を当てに出来なくなり、動きがとれなくなる、と主張している39。そして、次のように述べている。
「このような諸理由からして、我々は、ベルリン=ローマ枢軸およびベルリン=ローマ=東京の三角形を強化すること、ならびに他の国々をこの結合に参加させることに、今後も利害関係を持ち続けるのである。我々の友情による結合が強固なものであればあるほど、イギリスは、そしてフランスもまた、中央ヨーロッパにおける、ドイツを巻き込むいかなる紛争についても局外にとどまるという確率は増大するであろう。」40
38 三宅正樹著『日独伊三国同盟の研究』第三章「リッベントロップ覚書」をめぐって、参照。39 三宅同書、第三章第七節〔史料〕「リッベントロップ覚書」一三〇~一三二頁。40 三宅同書、132 頁。原史料は、ドイツ外務省外交文書、D シリーズ、第一巻、文書第93 号。
このように考えていたリッベントロップから見れば、いわゆる「防共協定強化問題」で、ソ連を対象とするのならば協定の強化に賛成するが、英仏両国をも対象に加えるのにはしりごみする、という日本の態度は歯がゆい限りであると同時に、「ベルリン=ローマ=東京の三角形」によって英仏を牽制するという、当時彼が到達していた立場とは遠くへだたっていた。
リッベントロップは、自分のイニシアティヴで独ソ不可侵条約を成立に持ち込んだ後でも、ドイツに裏切られたと考えていた日本を、今度は日ソ独伊の、「イギリスにほこ先を向けた四国の協力関係」に誘い込もうとしていた41。
このように、リッベントロップの外交路線は、ひと口でいえば「反英親露路線」であった。ところが、ヒトラーの外交路線は、これもひと口でいえば「親英反露路線」であった。日本が散々に振り回されたのは、このように相反する路線が、ドイツ外交の中に同時に存在していたためであった。このようなドイツ外交の二層性をはっきりと剔り出してみせたのが、ボン大学史学科教授クラウス・ヒルデブラントの『1933 年から1941 年までのドイツの外交:計算かドグマか?』42である。現在にいたるまで、独ソ不可侵条約から日独伊三国同盟を経て対ソ開戦に至るまでの時期のドイツ外交について、最も説得力のある整理をしているのは、ヒルデブラントのこの著作、中でも第五章「『世界分割』の思想(1939~1940 年)である、と著者は考えている。著者は、『日独伊三国同盟の研究』の中で、ヒルデブラントのこの著作と、特にその第五章について詳しく紹介した43。
ごく簡単にいえば、ヒトラーは、イギリスをドイツとの講和に持ち込むことに希望を持ち続け、その手段として対ソ戦を思いついたのに対して、リッベントロップは、常にロシアの強国としての存続を願い、マドリッドからモスクワを経て東京に至る大陸ブロックをつくりだすことによってイギリスに譲歩を強要しようとした。ヒトラーが一時的にこの大陸ブロック構想に賛成したために、リッベントロップ構想の一頂点である日独伊三国同盟が成立した。けれども、この同盟がイギリスをドイツの側に引き寄せるというヒトラーの期待に役立たなかったので、ヒトラーはおそくも1940 年10 月末までに、この大陸ブロック構想を放棄し、ソ連との対決という、彼のもともとの構想に戻ってしまった。リッベントロップは40 年11 月のモロトフとの会談で、もう一度、独伊ソ日の四国の勢力範囲を確定しようとしたが、モロトフの具体的な領土要求によって、それは

41 三宅同書、237 頁。原史料は、ドイツ外務省外交文書、D シリーズ、第八巻、文書第40 号、リッベントロップ発オット宛て電報。
42 Klaus Hildebrand, Deutsche Aussenpolitik 1933-1945: Kalkul oder Dogma (Stuttgart: Kohlhammer, 1971). 43 三宅同書、237 頁。379~391 頁。
失敗に帰した。おおよそ以上が、ヒルデブラントの同書第五章のあらましである44。
日本側は、このようなドイツ外交の二層性を見抜けなかった。外側からは外務大臣であるリッベントロップが交渉相手として巨大な存在であるかのように見えたが、ドイツの進路を最終的に決定するのは、独裁者ヒトラーであった。ヒトラーが対ソ戦を決定してしまえば、外務大臣に過ぎないリッベントロップはこれに服従する他はなかった。リッベントロップの1940 年9 月段階での、日ソ間を「正直な仲買人」として仲介するという約束と、さらには日ソ独伊四国ブロック構想とに、40 年12 月18 日の対ソ戦決定以後も期待をかけ続けた日本は、11 月のモロトフ・ヒトラー会談の実質的決裂以降独ソ関係に生じた変化に、はなはだ鈍感であったといわなければならない。日ソ独伊四国ブロック構想は、リッベントロップの構想であり、ヒトラーも短い期間これに傾いていたけれども、ヒトラーの本来の主張はソ連の打倒であった。我国でも何種類も邦訳が出回っていたヒトラーの『我が闘争』を読めば、ヒトラーの本来の主張がソ連打倒であることは、すぐわかったはずなのに、陸軍の一部まで、日ソ独伊四国ブロック構想にとり付かれた。ヒトラーとスターリンの握手である独ソ不可侵条約の衝撃は、それほどまでに大きかったということであろう。
ヒルデブラントが前掲書で示唆した、ヒトラーの親英反ソ路線とリッベントロップの反英親ソ路線が同時に存在していた事態は、日本の外交を混乱させた。リッベントロップは、独ソ不可侵条約に結実したような親ソ路線に熱意を示し、このことは、松岡シュターマー会談記録第十項にも反映している。シュターマーは、自分の述べる内容は、リッベントロップ外相の言葉と受け取って差支えないと確言していた。日ソ独伊四国協定案にも、リッベントロップは熱心であったと推測される。しかし、独裁者ヒトラーの対ソ戦開始決定の前に、リッベントロップは無力であった。
ワシーリー・モロジャコフ博士が2008 年にモスクワで公刊したリッベントロップ論のロシア語の494 頁に及ぶ大著のなかで、1940 年11 月13 日の最後の会談でリッベントロップがモロトフに示した日ソ独四国連合案を、リッベントロップのユーラシア大陸ブロック構想の具体化として重視し、おそらくヒトラーの完全な同意を得ていなかったものという重要な推測をしておられることを、最後に示唆に富む指摘として付け加えておきたい。この大著の英文要旨(Synopsis )の中で、モロジャコフ博士は次のように述べている。
「フォン・リッベントロップの伝記にとって、モロトフとの彼の最後の会話は、最も重要な出来事であった。ドイツ外相は、彼の客人(モロトフ)に対して、ドイツ、イタ
44 Hildebrand, ebenda, SS. 94-106.
リア、日本を一方の側とし、ソ連を他方の側とする協定についての彼の草稿(draft )を、締約国の『領土的希望』とトルコに対するコントロールとにかかわる二つの秘密付属議定書と合わせて紹介した。私(モロジャコフ博士)は、彼(フォン・リッベントロップ)が、彼の――私の思うに、主として彼自身のオリジナルな――計画に対して、ヒトラーの完全かつ真摯な承認を得ていなかった。或いはおそらく得ていなかったであろう。」45
リッベントロップは、外務大臣でありながら、ヒトラーのバルバロッサ作戦(対ソ作戦)計画を、作戦指令が発せられた1940 年12 月には知らされず、41 年春になって知らされたようである。モロジャコフ博士によれば、バルバロッサ作戦を打ち明けられたリッベントロップは、ヒトラーの意向を替えさせようと必死になった。彼は、先ず、ヒトラーに駐ソ大使シューレンブルクの意見を聴くことをすすめ、会見は1941 年4 月28 日に実現した。
シューレンブルクはヒトラーの対ソ戦決意を察知して驚いてモスクワに帰った。また、リッベントロップは、ヒトラーの注意をソ連からイラクへと転換させて、イラクで反英クーデターを支援するようにすすめ、また、対ソ戦のかわりに、スバス・チャンドラ・ボースとインドの反英勢力を支援しようとも試みたが、すべては無駄であった46。
モロジャコフ博士によれば、対ソ宣戦布告が行われた1941 年6 月22 日の朝の、リッベントロップとベルリン駐在ソ連大使ウラディミール・デカノゾフとの最後の会話を通訳したヴァレンテフィン・ベレシュコフは、リッベントロップのこの時の様子について、心乱れ、取り乱し、ほとんど呂律が回らなくなるほど混乱していた、と後に語った。そして、ベレシュコフは、「どうか、モスクワで、私がこの侵略に反対していた、と告げて欲しい」と言ったリッベントロップの最後の言葉を記憶に留めていた。「私は彼の話を信じる(I believe his tale.)」とモロジャコフ博士は付け加えている47。
45
Vassili Molodiakov , RIBBENTROP. Fuhrer’s Stubborn Adviser (Moscow: AST-Press, 2008). Synopsis p.
9.
46
Synopsis p. 10. 47 Synopsis, ibid. 本論文の論旨は以下のドイツ語の論文において詳細に提示されている。Masaki Miyake, “Die Idee eines eurasischen Blocks Tokio-Moskau-Berlin-Rom 1939-41”, Internationale Dilemmata und europaische Visionen. Festschrift zum 80. Geburtstag von Helmut Wagner, herausgegeben von Martin Sieg und Heiner Timmermann, Berlin, 2010.


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